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第10話:灰から咲く
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第10話:灰から咲く
春の匂いがした。
冬の間、固く閉じていた土がゆるみ、
道路脇の植え込みから湿った青さが立ち上がってくる。
風はまだ少し冷たいのに、陽射しだけが先に夏を予告しているみたいだった。
私は玄関で靴ひもを結び、鏡の前で一度だけ呼吸を整えた。
「……行ってきます」
誰も返事はしない。
でも、もう寂しくない。
ドアを開けると、朝の光がまぶしかった。
五年前、施設の門を出たときの光を思い出す。
あの光は冷たかった。
今の光は、背中を押す。
大学のキャンパスは、予想より騒がしかった。
スニーカーがアスファルトを叩く音。
自転車のベル。
笑い声。
購買から漂う焼き立てパンの甘い匂い。
私は人混みの中に立っているだけで、少し酔いそうになる。
「新入生? 迷った?」
声をかけてきたのは、同じ資料を持った女の子だった。
ストレートの髪が陽に透けている。
「……迷ってます」
正直に言うと、その子は笑った。
「だよね。私も。あ、私は加奈」
「心陽です」
名乗ると、胸の中に小さな波が立つ。
心陽。
かつて命令されるために呼ばれた名前が、
今は自己紹介として響く。
「心陽ちゃん、どこ学部?」
「社会福祉……です」
言った瞬間、自分でも驚いた。
口にした途端、その選択が“現実”になった気がしたから。
加奈が目を丸くする。
「すご。なんで?」
私は少しだけ迷ってから、笑ってみせた。
「……助けられたから」
それだけで、十分だった。
講義室の窓から見えた桜は、まだ三分咲きだった。
花びらが揺れている。
ノートにペンを走らせる音の中で、
私はふと、自分の手を見た。
この手は、掃除機の柄を握ってきた。
雑巾を絞ってきた。
冷えた皿を洗ってきた。
そして今、ペンを握っている。
同じ手なのに、別の人生を握っている。
「心陽様」
講義の帰り、スマホが震えた。
橘からのメッセージだ。
> 家の件、整いました。
> 必要ならいつでも。
私は短く返す。
「ありがとうございます」
“様”の文字がまだ照れくさい。
でも、嫌じゃない。
その日の午後。
私は家の二階の一室のドアを開けた。
空っぽの部屋。
白い壁。
窓から差し込む柔らかな光。
昔は物置だった。
誰のものでもない部屋。
私は床に座り、持ってきた段ボールを開ける。
中には新品のノート。
色鉛筆。
子ども用の小さなスリッパ。
湯呑みではなく、マグカップ。
「……ここにしよう」
独り言が部屋に落ちる。
私は壁に小さな掲示板を取り付けた。
ネジを回すたび、木の匂いが立つ。
手のひらが少しだけ痛い。
でも、この痛みは嫌いじゃない。
夕方、インターホンが鳴った。
私は玄関へ走る。
ドアの向こうに立っていたのは、三浦先生だった。
手には紙袋。
中から、焼き菓子の甘い匂いが漏れている。
「お邪魔します」
先生は部屋を見て、目を細めた。
「……やったんだね」
私は頷く。
「はい。始めます」
先生が靴を脱ぎながら言う。
「緊張してる?」
「してます」
「うん。いい緊張だよ」
リビングでお茶を淹れる。
湯気が立つ。
カップの縁が指先を温める。
「先生、今日来る子……どんな子ですか」
「十三歳。女の子。家庭がしんどくて、今は一時保護。心陽ちゃんの昔と、少し似てる」
十三歳。
胸が軽く痛む。
私が父を失った年。
「……怖いって思ってるでしょうね」
「うん。たぶん、誰も信じたくない」
先生は私を見る。
「心陽ちゃんはどうだった?」
私は笑う。うまく笑えた。
「……信じると痛いから、信じないって決めてました」
先生が頷く。
「じゃあ、分かるよね」
「はい」
しばらくして、玄関がノックされた。
先生が立ち上がる。
「来たよ」
私の心臓が、少しだけ跳ねた。
ドアを開けると、小さな女の子が立っていた。
制服のようなジャージ。
手には小さなリュック。
目は伏し目がちで、唇が固い。
「……こんにちは」
先生が優しく言う。
「この子が、心陽ちゃん。今日はここで少し休もうね」
女の子は私を見て、すぐ視線を落とす。
私はしゃがんで目線を合わせた。
「こんにちは。心陽です」
返事はない。
私は焦らない。
返事がないことに慣れている。
返事を強要される苦しさも知っている。
「靴、脱げる?」
女の子が小さく頷く。
「……うん」
その声は細い。
でも、声だ。
初めての“つながり”。
部屋に案内する。
新しいマグカップでココアを作る。
粉が湯に溶ける匂いが甘い。
カップを両手で包む女の子の指先は冷えている。
「熱いから、ゆっくりね」
私は言う。
女の子が小さく頷く。
沈黙が続く。
でも、怖い沈黙ではない。
私は色鉛筆を机に置いた。
「絵、描く?」
女の子がちらりと見る。
「……描いてもいいの?」
その一言が、胸を打った。
描いてもいいの?
私は、昔、許可を求めることさえ許されなかった。
「もちろん」
私は笑う。
「ここは、あなたが壊さない限り、何してもいい」
女の子が少しだけ口元を緩める。
「……壊さない」
「うん。壊さなくていい」
女の子が鉛筆を握る。
紙の上を走る音が、静かに部屋を満たす。
しばらくして、女の子がぽつりと言った。
「……ここ、静かだね」
「うん。静かだよ」
「怒鳴られない?」
心臓がきゅっとなる。
私は首を振る。
「怒鳴られない」
女の子の肩が、少しだけ下がる。
「……帰っても、また怒鳴られる」
その声が震える。
私は息を吸う。
この瞬間、私の中で何かが決まる。
「ここは、帰る場所になっていい」
私はゆっくり言う。
女の子が顔を上げる。
「……帰る場所?」
私は頷く。
「建物じゃなくてね」
言葉を選ぶ。
「安心できる関係がある場所。怒鳴られない場所。いていいって思える場所」
女の子の目に、涙が溜まる。
でも、落ちない。
耐える目だ。
私も、そんな目をしていた。
「……心陽さんは、ここに住んでるの?」
「住んでる」
「一人?」
「最近は、そう。でもね……」
私は隣の部屋のほうを見る。
先生がキッチンで皿を洗っている音がする。
水が流れる音。
生活の音。
「一人じゃないって思える人がいる」
女の子が小さく頷いた。
「……いいね」
その言葉に、先生がリビングへ戻ってきて微笑む。
「帰る場所があるって、いいね」
先生が言う。
女の子は先生を見て、また私を見て、
小さく、もう一度頷く。
「……うん」
夕方、女の子が帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、女の子が言った。
「……また来てもいい?」
私は笑った。
「来て。いつでも」
女の子の目が少しだけ明るくなる。
「……ありがとう」
その一言で、胸がいっぱいになる。
ドアが閉まったあと、私は玄関に立ち尽くした。
先生が隣に立つ。
「どうだった?」
私は深く息を吐く。
ココアの甘い匂い。
新しいノートの紙の匂い。
洗剤の匂い。
この家の匂い。
「……怖かったです」
「うん」
「でも、嬉しかった」
先生が頷く。
「それが家だよ」
私はリビングへ戻る。
机の上に、女の子が描いた絵が残っていた。
小さな家。
大きな窓。
中に、二人。
手をつないでいる。
私は指でそっとなぞる。
紙のざらりとした感触が、確かにそこにある。
涙が落ちそうになる。
でも、泣きながら笑ってしまう。
「……私、もう灰の中にいない」
声に出す。
家は、建物じゃない。
家は、関係だ。
私は失ったものを取り戻した。
それだけじゃない。
私は、誰かに渡せる場所を作った。
灰の中で息を殺していた私は、
いま、息をしている。
窓の外で、桜の枝が揺れていた。
少し遅れて咲く花は、
それでも春に間に合う。
私はその花を見て、静かに微笑んだ。
春の匂いがした。
冬の間、固く閉じていた土がゆるみ、
道路脇の植え込みから湿った青さが立ち上がってくる。
風はまだ少し冷たいのに、陽射しだけが先に夏を予告しているみたいだった。
私は玄関で靴ひもを結び、鏡の前で一度だけ呼吸を整えた。
「……行ってきます」
誰も返事はしない。
でも、もう寂しくない。
ドアを開けると、朝の光がまぶしかった。
五年前、施設の門を出たときの光を思い出す。
あの光は冷たかった。
今の光は、背中を押す。
大学のキャンパスは、予想より騒がしかった。
スニーカーがアスファルトを叩く音。
自転車のベル。
笑い声。
購買から漂う焼き立てパンの甘い匂い。
私は人混みの中に立っているだけで、少し酔いそうになる。
「新入生? 迷った?」
声をかけてきたのは、同じ資料を持った女の子だった。
ストレートの髪が陽に透けている。
「……迷ってます」
正直に言うと、その子は笑った。
「だよね。私も。あ、私は加奈」
「心陽です」
名乗ると、胸の中に小さな波が立つ。
心陽。
かつて命令されるために呼ばれた名前が、
今は自己紹介として響く。
「心陽ちゃん、どこ学部?」
「社会福祉……です」
言った瞬間、自分でも驚いた。
口にした途端、その選択が“現実”になった気がしたから。
加奈が目を丸くする。
「すご。なんで?」
私は少しだけ迷ってから、笑ってみせた。
「……助けられたから」
それだけで、十分だった。
講義室の窓から見えた桜は、まだ三分咲きだった。
花びらが揺れている。
ノートにペンを走らせる音の中で、
私はふと、自分の手を見た。
この手は、掃除機の柄を握ってきた。
雑巾を絞ってきた。
冷えた皿を洗ってきた。
そして今、ペンを握っている。
同じ手なのに、別の人生を握っている。
「心陽様」
講義の帰り、スマホが震えた。
橘からのメッセージだ。
> 家の件、整いました。
> 必要ならいつでも。
私は短く返す。
「ありがとうございます」
“様”の文字がまだ照れくさい。
でも、嫌じゃない。
その日の午後。
私は家の二階の一室のドアを開けた。
空っぽの部屋。
白い壁。
窓から差し込む柔らかな光。
昔は物置だった。
誰のものでもない部屋。
私は床に座り、持ってきた段ボールを開ける。
中には新品のノート。
色鉛筆。
子ども用の小さなスリッパ。
湯呑みではなく、マグカップ。
「……ここにしよう」
独り言が部屋に落ちる。
私は壁に小さな掲示板を取り付けた。
ネジを回すたび、木の匂いが立つ。
手のひらが少しだけ痛い。
でも、この痛みは嫌いじゃない。
夕方、インターホンが鳴った。
私は玄関へ走る。
ドアの向こうに立っていたのは、三浦先生だった。
手には紙袋。
中から、焼き菓子の甘い匂いが漏れている。
「お邪魔します」
先生は部屋を見て、目を細めた。
「……やったんだね」
私は頷く。
「はい。始めます」
先生が靴を脱ぎながら言う。
「緊張してる?」
「してます」
「うん。いい緊張だよ」
リビングでお茶を淹れる。
湯気が立つ。
カップの縁が指先を温める。
「先生、今日来る子……どんな子ですか」
「十三歳。女の子。家庭がしんどくて、今は一時保護。心陽ちゃんの昔と、少し似てる」
十三歳。
胸が軽く痛む。
私が父を失った年。
「……怖いって思ってるでしょうね」
「うん。たぶん、誰も信じたくない」
先生は私を見る。
「心陽ちゃんはどうだった?」
私は笑う。うまく笑えた。
「……信じると痛いから、信じないって決めてました」
先生が頷く。
「じゃあ、分かるよね」
「はい」
しばらくして、玄関がノックされた。
先生が立ち上がる。
「来たよ」
私の心臓が、少しだけ跳ねた。
ドアを開けると、小さな女の子が立っていた。
制服のようなジャージ。
手には小さなリュック。
目は伏し目がちで、唇が固い。
「……こんにちは」
先生が優しく言う。
「この子が、心陽ちゃん。今日はここで少し休もうね」
女の子は私を見て、すぐ視線を落とす。
私はしゃがんで目線を合わせた。
「こんにちは。心陽です」
返事はない。
私は焦らない。
返事がないことに慣れている。
返事を強要される苦しさも知っている。
「靴、脱げる?」
女の子が小さく頷く。
「……うん」
その声は細い。
でも、声だ。
初めての“つながり”。
部屋に案内する。
新しいマグカップでココアを作る。
粉が湯に溶ける匂いが甘い。
カップを両手で包む女の子の指先は冷えている。
「熱いから、ゆっくりね」
私は言う。
女の子が小さく頷く。
沈黙が続く。
でも、怖い沈黙ではない。
私は色鉛筆を机に置いた。
「絵、描く?」
女の子がちらりと見る。
「……描いてもいいの?」
その一言が、胸を打った。
描いてもいいの?
私は、昔、許可を求めることさえ許されなかった。
「もちろん」
私は笑う。
「ここは、あなたが壊さない限り、何してもいい」
女の子が少しだけ口元を緩める。
「……壊さない」
「うん。壊さなくていい」
女の子が鉛筆を握る。
紙の上を走る音が、静かに部屋を満たす。
しばらくして、女の子がぽつりと言った。
「……ここ、静かだね」
「うん。静かだよ」
「怒鳴られない?」
心臓がきゅっとなる。
私は首を振る。
「怒鳴られない」
女の子の肩が、少しだけ下がる。
「……帰っても、また怒鳴られる」
その声が震える。
私は息を吸う。
この瞬間、私の中で何かが決まる。
「ここは、帰る場所になっていい」
私はゆっくり言う。
女の子が顔を上げる。
「……帰る場所?」
私は頷く。
「建物じゃなくてね」
言葉を選ぶ。
「安心できる関係がある場所。怒鳴られない場所。いていいって思える場所」
女の子の目に、涙が溜まる。
でも、落ちない。
耐える目だ。
私も、そんな目をしていた。
「……心陽さんは、ここに住んでるの?」
「住んでる」
「一人?」
「最近は、そう。でもね……」
私は隣の部屋のほうを見る。
先生がキッチンで皿を洗っている音がする。
水が流れる音。
生活の音。
「一人じゃないって思える人がいる」
女の子が小さく頷いた。
「……いいね」
その言葉に、先生がリビングへ戻ってきて微笑む。
「帰る場所があるって、いいね」
先生が言う。
女の子は先生を見て、また私を見て、
小さく、もう一度頷く。
「……うん」
夕方、女の子が帰る時間になった。
玄関で靴を履きながら、女の子が言った。
「……また来てもいい?」
私は笑った。
「来て。いつでも」
女の子の目が少しだけ明るくなる。
「……ありがとう」
その一言で、胸がいっぱいになる。
ドアが閉まったあと、私は玄関に立ち尽くした。
先生が隣に立つ。
「どうだった?」
私は深く息を吐く。
ココアの甘い匂い。
新しいノートの紙の匂い。
洗剤の匂い。
この家の匂い。
「……怖かったです」
「うん」
「でも、嬉しかった」
先生が頷く。
「それが家だよ」
私はリビングへ戻る。
机の上に、女の子が描いた絵が残っていた。
小さな家。
大きな窓。
中に、二人。
手をつないでいる。
私は指でそっとなぞる。
紙のざらりとした感触が、確かにそこにある。
涙が落ちそうになる。
でも、泣きながら笑ってしまう。
「……私、もう灰の中にいない」
声に出す。
家は、建物じゃない。
家は、関係だ。
私は失ったものを取り戻した。
それだけじゃない。
私は、誰かに渡せる場所を作った。
灰の中で息を殺していた私は、
いま、息をしている。
窓の外で、桜の枝が揺れていた。
少し遅れて咲く花は、
それでも春に間に合う。
私はその花を見て、静かに微笑んだ。
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