『相続人は、追い出された娘でした』

かおるこ

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第9話:最後の対峙

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第9話:最後の対峙

インターホンが鳴ったとき、私はキッチンで包丁を握っていた。

玉ねぎの白い層が、薄く光っている。
包丁の刃が、まな板に当たる音が乾いて響く。

ピンポーン。

二度目。

手が止まる。

胸が、ほんの少しだけざわつく。

私は包丁を置き、手を洗う。
水の冷たさが指先を引き締める。

玄関へ向かう足音が、やけに響く。

ドアの向こうから、かすかな香水の匂いが流れてきた。

甘く、重い匂い。

懐かしくはない。

ドアを開ける。

継母が立っていた。

以前よりやつれている。
コートは少し安物に変わっている。
でも、目の奥の強さは消えていない。

「……久しぶりね」

声は低い。

私は何も言わず、ただ見つめる。

風が冷たい。

継母は喉を鳴らす。

「中に入れてくれない?」

一瞬だけ、迷う。

でも、玄関の敷居を越えさせない。

「ここでお話を」

継母の口元が歪む。

「相変わらずね」

私は答えない。

沈黙が流れる。

やがて、継母が本題を切り出す。

「……お金が必要なの」

その言葉は、予想していた。

それでも、胸の奥がひやりとする。

「生活費だけじゃ足りないのよ。あの子たちもいるし……」

“あの子たち”。

私は静かに言う。

「遺留分は、毎月振り込まれています」

「足りないって言ってるの!」

声が一段高くなる。

近所の窓が、かすかに揺れる音がする。

私は目を逸らさない。

「何に使っていますか?」

継母が一瞬、詰まる。

「生活よ!」

「家賃は?」

「……」

「光熱費は?」

「……」

沈黙。

私は息を吸う。

冬の空気が、肺に冷たく入る。

「父は、最低限を渡すと決めました」

「最低限なんて失礼な言い方!」

継母が一歩踏み出す。

私は動かない。

「私はあなたを育てたのよ!」

その叫びが、空気を震わせる。

でも、私は揺れない。

「あなたは、私の親ではありません」

静かに言う。

継母の目が見開かれる。

「何ですって……」

「私はあなたに守られた記憶がありません」

声は冷たくない。

ただ、事実だ。

「ご飯を作った。洗濯をした。学校を休ませた。怒鳴った。叩いた」

一つ一つ、淡々と。

継母の顔が青ざめる。

「そんなこと……!」

「録音もあります」

言葉が止まる。

風が吹き、コートの裾が揺れる。

継母の目が揺らぐ。

「……私だって苦しかったのよ」

その声は、少し弱い。

「夫は死ぬし、お金は減るし、あなたは反抗的で」

反抗的。

私は小さく笑う。

「私は八歳でした」

その一言で、空気が止まる。

継母の唇が震える。

「……でも、あなたは私の娘でしょう?」

その言葉に、胸がわずかに痛む。

娘。

かつて欲しかった言葉。

でも今は、違う。

「違います」

はっきり言う。

「私はあなたの娘ではありません」

沈黙。

遠くで車が走る音。

玄関の灯りが、足元を照らす。

継母が目を逸らす。

「じゃあ……助けないっていうの?」

私は少しだけ視線を落とす。

玉ねぎの匂いがまだ指先に残っている。

涙を誘う匂い。

でも、泣かない。

「法的に定められた金額は支払います」

「それだけ?」

「それ以上は支援しません」

声が、はっきりと響く。

継母が拳を握る。

「冷たい子ね」

私は首を振る。

「線を引いているだけです」

その言葉を、自分で噛みしめる。

線引き。

復讐ではない。

怒鳴り返すことでもない。

ただ、境界を決めること。

「あなたは、私の人生を管理する人ではありません」

一歩、前に出る。

「私は、あなたの責任でもありません」

継母の目に涙が浮かぶ。

本物かどうかは分からない。

でも、もう確かめる必要もない。

「……本当に、これで終わりなの?」

その声は小さい。

私は静かに答える。

「終わりではありません」

継母が顔を上げる。

「始まりです」

胸の奥が、驚くほど穏やかだ。

怒りもない。

優越感もない。

ただ、決意だけがある。

「これからは、私は私の人生を生きます」

風が吹く。

甘い香水の匂いが、少しだけ薄れる。

「あなたも、あなたの人生を」

継母が視線を落とす。

やがて、踵を返す。

足音が遠ざかる。

門が閉まる音。

静寂。

私はドアを閉める。

鍵をかける。

カチリ、と乾いた音。

背中をドアに預ける。

深く息を吐く。

震えていない。

玉ねぎの匂いがまだ残っている。

私はキッチンへ戻る。

包丁を手に取る。

切りかけの玉ねぎ。

涙が少し、滲む。

でも、それは玉ねぎのせいだ。

私はフライパンに油を引く。

ジュッ、と音が立つ。

その音が、家に満ちる。

私はようやく気づく。

復讐は、終わった。

勝利でもない。

ただ、境界が引かれた。

そして私は、

誰の娘でもなく、

自分の人生の、当事者になった。

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