『相続人は、追い出された娘でした』

かおるこ

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第8話:本当の家族

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第8話:本当の家族

インターホンの音が、やけに澄んで聞こえた。

この家で、怒鳴り声以外の音を待つのは初めてだ。

私はエプロンの紐を結び直し、玄関へ向かう。
床はもう、ほこりをかぶっていない。
洗剤のかすかな柑橘の匂いが残っている。

ドアを開けると、三浦先生が立っていた。

冬用のコート。
マフラーからのぞく、あの柔らかい笑顔。

「……お邪魔します」

少し遠慮がちに言う。

私は首を振る。

「いらっしゃいませ」

その言葉を、この家で言える日が来るなんて。

先生は玄関を見回し、ゆっくり靴を脱いだ。

「きれいにしたね」

「はい」

照れくさくて、視線を落とす。

リビングに案内する。

大きな窓から、午後の光が差し込んでいる。
カーテンは新しく替えた。
空気は澄んでいる。

先生がソファに腰を下ろす。

「……同じ家なのに、全然違う」

その言葉が胸に落ちる。

違う。

私は台所へ戻り、湯を沸かす。
ポットの中で水が小さく震える音。

急須に茶葉を入れると、ほのかな香りが立つ。
蒸気が指先を温める。

「何も用意しなくていいのに」

「用意したいんです」

自分でも驚くほど素直に言えた。

お茶を運ぶ。

湯気がふわりと上がる。

先生は両手で湯呑みを包み込む。

「落ち着くね」

私は向かいに座る。

この位置に、私は座ったことがなかった。

いつも、立っていた。

先生が部屋を見回す。

「……帰ってきたんだね」

帰る。

その言葉に、少しだけ引っかかる。

「取り戻しました」

先生が笑う。

「うん。そうだね」

少し沈黙が流れる。

壁の時計の音が、穏やかに刻む。

「怖くなかった?」

先生が静かに聞く。

私は考える。

怖かった。

でも、震えはしなかった。

「……怖かったです。でも、怒鳴られなかったから」

先生が首を傾げる。

「怒鳴られなかった?」

「掃除しても、誰も文句言わなかった」

自分で言って、少し笑ってしまう。

先生も微笑む。

「それ、すごく大事なことだよ」

私は湯呑みを握る。

陶器の温かさが、指先からじんわり広がる。

「先生」

「うん?」

「私、ずっと“家”が欲しかったんです」

言葉にすると、喉が少し詰まる。

「でも、“家”って建物だと思ってた」

先生は静かに聞いている。

私は続ける。

「立派な家に住んでたのに、帰りたいって思ったことなかった」

窓の外で風が鳴る。

枝がこすれる音。

「ここに戻ってきて……最初は空っぽで」

胸の奥が、少しだけ震える。

「でも、怒鳴り声がなくて」

先生の目が優しく細くなる。

「それで?」

「それだけで、少し安心したんです」

先生はゆっくり湯呑みを置く。

「帰る場所があるって、いいね」

その一言で、視界が少し滲む。

帰る場所。

私は周囲を見渡す。

光の差す床。
磨いたテーブル。
湯気の残る急須。

「……ありますか、私」

先生は迷わず言う。

「あるよ」

その即答に、胸がぎゅっとなる。

「ここも、施設も、私の家も」

私は息を止める。

「あなたが安心できる場所は、全部“帰る場所”だよ」

安心。

その感覚を、私は最近覚えたばかりだ。

怒鳴られないこと。
責められないこと。
“いていい”と思えること。

「先生」

「うん」

「私、もう“追い出される側”じゃないんですよね」

先生は立ち上がり、部屋を歩く。

窓辺に立ち、光を浴びる。

「あなたはもう、自分で選べる側だよ」

選べる。

私は立ち上がる。

先生の隣に並ぶ。

冬の空気が窓越しに伝わる。

「でも、もしまた……」

言葉が揺れる。

「一人になったら?」

先生がこちらを見る。

「一人になっても、あなたはあなたの味方でいられる?」

その問いに、私は少し考える。

五年前なら、答えは出なかった。

今は。

「……なれます」

小さく、でも確かに。

先生が笑う。

「それなら大丈夫」

沈黙が落ちる。

でも、重くない。

私はふと思い出す。

「先生、覚えてますか。私、最初は全然話さなかった」

「覚えてるよ。窓の外ばっかり見てた」

「帰る場所がないって思ってたから」

先生が頷く。

「でも、今は?」

私は部屋を見渡す。

光。
静けさ。
温かい湯気。

そして、目の前の人。

「……今は、ここがある」

先生が微笑む。

「建物じゃなくて?」

私は首を振る。

「関係、ですね」

言葉にすると、すとんと胸に落ちる。

家は、壁じゃない。

声だ。

視線だ。

否定されない空気だ。

先生がコートを手に取る。

「今日は呼んでくれてありがとう」

「来てくれて、ありがとうございます」

玄関まで送る。

靴を履く先生の背中が、少し寂しい。

でも、怖くない。

ドアの前で、先生が振り返る。

「心陽ちゃん」

「はい」

「あなたは、もう誰かに居場所を決めてもらう人じゃない」

その言葉が、心に残る。

「自分で作れる人だよ」

ドアが閉まる。

外の冷たい空気が一瞬流れ込み、また静寂が戻る。

私はリビングへ戻る。

家は静かだ。

でも、寂しくない。

私はソファに座る。

湯呑みを手に取る。

まだ、少し温かい。

「……帰る場所があるって、いいね」

先生の言葉をなぞる。

家は、建物じゃない。

安心できる関係。

その関係を、私は初めて、自分の手で選んだ。

窓から差す光が、床を照らす。

私は、ゆっくり息を吸う。

この空気は、私のものだ。

そして私は、ようやく理解する。

本当の家族とは、
血でも、屋根でもない。

「いていい」と言ってくれる人。

それが、家だ。

私は微笑む。

この家は、もう空っぽじゃない。

ここに、私がいるから。
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