『相続人は、追い出された娘でした』

かおるこ

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第7話:空っぽの家

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第7話:空っぽの家

ドアが閉まったあと、家は驚くほど静かだった。

さっきまであった怒鳴り声も、スーツケースの音もない。
残っているのは、ワインと甘い香水の匂いだけ。

私はリビングの真ん中に立つ。

カーテンは半分閉まり、光が斜めに差し込んでいる。
床には細かい埃。
テーブルには輪染み。
ソファにはシミ。

五年前、私はこの部屋を毎日磨いていた。

誰かに怒られないために。
嫌われないために。
捨てられないために。

胸がざわつく。

怖い?

違う。

これは、空白だ。

「……広い」

声に出してみる。

自分の声が、天井に反射して戻ってくる。

橘が玄関から言う。

「本日は失礼します。何かあればご連絡を」

「ありがとうございました」

玄関のドアが閉まる。

本当に、一人だ。

静寂が耳を満たす。

私はゆっくり靴を脱ぐ。

裸足で床に立つ。

ひやりとした感触。

でも、あの冬のような凍える冷たさではない。

ただの床だ。

私はキッチンへ向かう。

シンクには乾いた皿が積まれ、油の匂いが残っている。
換気扇はべたつき、指先にざらつきが残る。

昔、ここで立ったまま食べた。

背中越しに聞こえた笑い声。
グラスの触れ合う音。

私は蛇口をひねる。

水が勢いよく流れる。

その音が、部屋の静けさを破る。

しばらく、水音を聞く。

そして、スポンジを手に取る。

泡立てる。

洗剤の柑橘の匂いが広がる。

手が止まる。

あの日々と同じ動作。

胸が締めつけられそうになる。

「……違う」

小さく言う。

違う。

あのときは命令だった。

今日は、選択だ。

私は皿を洗い始める。

水が跳ねる。
泡が弾ける。
指先が温かくなる。

一枚ずつ、音を立てずに重ねる。

静かだ。

怒鳴られない。
急かされない。
誰も見ていない。

それが、こんなに楽だなんて。

私はふと、リビングに戻る。

掃除機はクローゼットの奥にあった。

埃をかぶっている。

コンセントを差し込む。

スイッチを押す。

低いモーター音が響く。

その音を聞いた瞬間、体が強張る。

――心陽、隅までやりなさいよ。

幻聴のように、声が蘇る。

私は一度、スイッチを切る。

静寂。

深く息を吸う。

そして、もう一度押す。

今度は、ゆっくりと。

掃除機を前に進める。

ゴミを吸い込む音。

カーペットの繊維が逆立つ感触。

私は一歩一歩、部屋をなぞる。

怒られないためじゃない。

褒められるためでもない。

ただ、この空間を整えたい。

窓を開ける。

冷たい風が入る。

香水の匂いが薄まる。

代わりに冬の空気が満ちる。

私はカーテンを外す。

レールの金属音が鳴る。

布を抱えると、埃が舞い上がる。

くしゃみが出る。

「……っくしゅ」

思わず笑う。

こんなふうに、くしゃみしても怒られない。

私はカーテンを洗濯機に放り込む。

水が回り始める音。

ぐるぐると布が回る。

その音を聞きながら、リビングの床を雑巾で拭く。

膝をつく。

雑巾を押し付ける。

床が冷たい。

でも、嫌じゃない。

かつては罰だった姿勢。

今は、選んだ姿勢。

私は声に出す。

「これは、私の家を整えるための掃除だ」

言葉が、部屋に響く。

誰も否定しない。

雑巾を滑らせるたび、床が少しずつ光を取り戻す。

光が反射する。

私の姿が、うっすら映る。

「……ここに、いる」

私は床に触れる。

ここは、私の場所だ。

キッチンの棚を開ける。

中は空に近い。

雑然とした調味料が残っているだけ。

私は古い瓶を捨てる。

ゴミ袋がぱさりと鳴る。

物が減るたび、空気が軽くなる。

階段を上る。

足音が響く。

自分の足音だ。

あの頃は、静かに上らなければならなかった。

今は、音を立ててもいい。

二階の部屋。

かつて連れ子が使っていた部屋は、派手なポスターの跡が残っている。

私の部屋だった場所は、物置になっていた。

段ボールが積まれ、古い服が山になっている。

私は窓を開ける。

風が入り、カーテンが揺れる。

埃が光の中で舞う。

私は段ボールを一つ持ち上げる。

軽い。

五年分の、他人の生活。

それを一つずつ、玄関へ運ぶ。

汗が滲む。

額を拭う。

体が温まる。

苦しい。

でも、嫌じゃない。

階段を何往復もする。

呼吸が荒くなる。

心臓が強く打つ。

生きている。

私は自分の部屋の床に座る。

何もない空間。

白い壁。

小さな窓。

静かだ。

ここで泣いたことも、怒鳴られたこともない。

ただ、使われなかった空間。

「……ここを、私の部屋にする」

言葉にすると、未来が形になる。

私は立ち上がる。

最後に、玄関を拭く。

あの日、追い出された場所。

雑巾を押し当てる。

力を込める。

「……もう、出ていかない」

小さくつぶやく。

外は夕方になっている。

空が橙に染まる。

私はドアを閉める。

家の中は、まだ空っぽだ。

家具も少ない。

生活の音もない。

でも。

空っぽは、悪くない。

ここには、怒鳴り声も、嘲笑もない。

私はリビングの中央に立つ。

掃除機のコードを巻く。

床が少し光っている。

深く息を吸う。

洗剤と冬の空気の匂い。

私は、笑う。

涙は出ない。

ただ、胸の奥が温かい。

奴隷のようにやらされた掃除は、
今日、私の手で意味を変えた。

これは罰じゃない。

これは、再生だ。

空っぽの家は、もう寂しくない。

私がいるから。
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