『超高級老人ホームひな祭りカースト』

かおるこ

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 ひな壇が消えたあとのホールは、思ったより広かった。

 赤い毛氈の匂いはもうない。代わりに、磨きたての床ワックスの甘い匂いが、春の光に溶けている。金屏風の代わりに置かれた観葉植物の葉が、窓からの風で小さく揺れる。

 段差のない空間は、どこか落ち着かない。

 「広すぎません?」

 真帆がモップを持ったまま、ぽつりとこぼす。

 佐伯が笑う。

 「今までが狭すぎたんだよ」

 「でも、なんか物足りない」

 「人間って勝手だよな」

 その会話を、麗子はカウンター席で聞いている。白いカップのコーヒーから、苦い湯気が立ちのぼる。指先に伝わる温もりが、やけに優しい。

 「物足りない?」

 麗子が振り返る。

 真帆が少し慌てる。

 「あ、いえ……段がないと、誰がどこにいるか分からなくて」

 「面白いじゃない」

 麗子はカップを持ち上げる。

 「迷子みたいで」

 佐伯が苦笑する。

 「迷子、ですか」

 「そう。自分の場所を自分で探すの」

 ホールの中央では、坂東と加賀谷が向かい合って将棋を指している。

 「ここでいいか?」

 坂東が盤を置く。

 「好きにしろ」

 加賀谷が言う。

 「段がないと、声も対等だな」

 坂東がぽつりと呟く。

 その向こう、白川が静かに本を読んでいる。紺ではなく、薄いグレーのカーディガン。沈香の匂いは、もうほとんどしない。

 麗子が歩み寄る。

 「静かね」

 「ええ」

 白川は本を閉じる。

 「段がないと、視線が散りますわ」

 「寂しい?」

 「少し」

 正直な声。

 麗子は椅子を引いて座る。

 「わたしも」

 「意外ですわ」

 「拍手は癖になるもの」

 ふたり、小さく笑う。

 窓の外、庭の梅がほころび始めている。湿った土の匂いが、微かに漂う。

 白川がぽつりと言う。

 「わたくし、昨日、財団に電話しましたの」

 「まあ」

 「寄付の一部を、介護士の研修費に回すように」

 麗子が目を細める。

 「あなた、変わったわね」

 「変わったのは、椅子がなくなったからかもしれません」

 指先がテーブルをなぞる。

 「守るものが、名から人に変わった」

 麗子はコーヒーを一口飲む。苦味が舌に広がる。

 「それ、素敵よ」

 少し離れた場所で、黒川静雄が杖をついて歩いている。以前よりゆっくりだが、目は穏やかだ。

 佐伯が声をかける。

 「黒川様、こちらでお茶を」

 「ありがとう」

 黒川は椅子に腰を下ろす。

 麗子が近づく。

 「王様」

 「その呼び名はやめたまえ」

 苦笑する。

 「どうだ、段のない王国は」

 「悪くないわ」

 「退屈ではないか」

 「少し」

 黒川は笑う。

 「人はな、退屈になると、また段を作りたくなる」

 白川が静かに言う。

 「そのときは、もう少し上手に」

 「上手に?」

 「誰も落ちない段に」

 麗子が肩をすくめる。

 「そんな段、あるかしら」

 沈黙のあと、黒川が言う。

 「ないな」

 三人が笑う。

 夕方。

 ホールに柔らかな橙色の光が差し込む。段のあった場所に、影だけが伸びる。

 真帆がぽつりと言う。

 「結局、なくなったんですね」

 佐伯が答える。

 「形はね」

 「形は?」

 「心の中には、まだあるよ」

 麗子がそれを聞いて、振り向く。

 「当然よ」

 「え?」

 「人間だもの」

 白川が続ける。

 「競うし、比べるし、嫉妬もする」

 麗子は笑う。

 「でも、前より少しだけ優しくなった」

 風が窓を鳴らす。

 桃の花びらが、一枚、床に落ちる。

 段はない。

 拍手もない。

 けれど、笑い声はある。

 白川が静かに言う。

 「桐生さん」

 「なあに」

 「また、何か始めません?」

 麗子は目を輝かせる。

 「いいわね」

 「今度は、ひな壇じゃなくて」

 「舞踏会?」

 「読書会でも」

 「退屈」

 「あなた、本当に落ち着きませんわね」

 「生きてる証拠よ」

 黒川が小さく笑う。

 「やれやれ」

 ホールに、穏やかなざわめきが戻る。

 段差のない床に、さまざまな足音が混ざる。

 優雅な地獄は終わった。

 けれど、人間は終わらない。

 麗子が窓の外を見つめる。

 春の匂いが、確かにある。

 「ねえ」

 彼女が小さく呟く。

 「やっぱり、また何か始まるわよ」

 白川が微笑む。

 「ええ。今度は、もう少し自由に」

 段のないホールに、笑い声が広がる。

 それは拍手よりも、ずっと温かかった。

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