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第六話:兵糧攻めへの対抗策
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第六話:兵糧攻めへの対抗策
夕刻のキッチンには、刺すような沈黙が満ちていた。
真由美が用意した夕食は、茹ですぎたブロッコリーと、表面が乾ききった焼き魚。それらは「義務」という名の不味(まず)い調味料で塗り潰されていた。
「お義母さん、これ、今月の家計の精算書です」
真由美が、トレイを叩きつけるようにテーブルに置いた。紙の上には、殴り書きのような数字が並んでいる。
「世帯を分ける、ヘルパーを呼ぶ……。結構なことですが、それなら筋を通してくださいね。介護サービスの自己負担分はもちろん、この家の固定資産税の按分、光熱費の超過分、それに私への『管理手数料』。全部合わせたら、お義母さんの年金、一円も残りませんよ?」
真由美は、冷え切った魚の目を箸で突き刺しながら、勝ち誇ったように口角を上げた。その瞳には、経済的に喉元を締め上げれば、老い先短い老婆などすぐに屈服するという、浅はかな確信が宿っている。
「家計の実権は私が握っているんです。一樹さんも『金のことは真由美に任せる』って言いきりましたから。お義母さん、これ以上わがままを通すなら、明日からお財布の中身、空っぽになりますよ?」
真由美の香水の匂いが、湿った部屋の中で澱(よど)んでいる。それはまるで、獲物を追い詰めた獣の吐息のようだった。
園子は、箸を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
窓の外では、雨上がりの湿った土の匂いが立ち上がっている。
「……管理手数料、ね。面白い言葉を使うわね」
園子の声は、凪いだ海のように静かだった。
「でも、残念ながらその請求書、法的な根拠がどこにもないわ。真由美さん、あなたは私の後見人でもなければ、財産管理の契約を結んだ代理人でもない。ただの『同居人』に、私の資産を一方的に削り取る権利はないのよ」
「はっ、法的な根拠? 何を寝ぼけたことを。ここは家族の家ですよ! 家族の間で法律なんて……」
「家族だからこそ、けじめが必要なのよ。……実は今日、行政書士の息子さんを持つ浩子さんに紹介していただいて、弁護士の先生とお会いしてきたの」
真由美の箸が、カチリと音を立てて皿の上で止まった。
「……弁、護士?」
「ええ。あなたが私の通帳を『管理してあげる』と言い出した時から、準備は始めていたわ。私は今日、**『任意後見契約』**の公正証書を作成するための手続きに入ったの。私が万が一、判断能力を失ったとしても、私の財産を守るのは、あなたではなく、家庭裁判所が監督する後見人になるわ」
真由美の顔から、急速に色が失われていく。
園子はさらに、カバンから一通の封筒を取り出した。
「それから、これ。**『自筆証書遺言書』**の写しよ。原本は法務局に預けてあるわ。この家と土地、そして夫が残してくれたわずかな預金。そのすべてを、誰に、どのような条件で相続させるか、私の意思を明確に記しておいた。……条件の中にはもちろん、『私の尊厳ある生活が維持されること』という項目も入っているわ」
「な……遺言!? お義母さん、一樹さんのことを信じてないんですか!?」
真由美が立ち上がり、椅子が床と擦れて不快な悲鳴を上げた。
「信じているからこそ、あの子をあなたの『共犯者』にしたくないのよ。……真由美さん。あなたが今やろうとしていることは、立派な『経済的虐待』に該当するわ。ヘルパーの田中さんや、ケアマネの佐藤さんには、すでにあなたの『管理手数料』の話、共有してあるの。外部の目が、あなたの数字を監視していると思ってちょうだい」
真由美の肩が、激しく上下した。
彼女は、自分が握っていると思っていた「家計」という名の首輪が、いつの間にか自分自身の首を絞める縄に変わっていることに気づき、戦慄していた。
園子は、目の前の不味そうな魚を見つめた。
「兵糧攻めにするつもりだったのでしょうけれど、甘いわね。私はかつて、会社の一円の使途を巡って銀行と渡り合ってきた人間なのよ。小手先の数字の操作で、私が動揺するとでも思った?」
「……お義母さん、あなた、最初から私を追い出すつもりだったのね」
「いいえ。私はただ、この家を『正しい場所』に戻したいだけよ。あなたが嘘の笑顔で私の財産を掠め取ろうとしなければ、こんな無粋な真似、私もしたくはなかった」
園子は立ち上がり、自分の夕食を手に取った。
そのまま、真由美の前で、ゴミ箱へと静かに滑り落とす。
「もう、あなたの作った食事は必要ないわ。明日からは、宅食サービスを契約したから。もちろん、支払いも私の口座から自動引き落としよ。あなたが私の財布を心配する必要は、もう一分たりともないの」
真由美は、何も言えずに立ち尽くしていた。
リビングに漂う香水の匂いが、外から吹き込んできた夜風にかき消されていく。
園子は自室に戻り、日記を開いた。
**『五月十八日。防壁(リーガル・バリア)の構築完了。敵の経済的封鎖を突破。これで私は、私自身の命のハンドルを取り戻した』**
窓の外では、庭の金木犀が夜の闇に深く沈んでいた。
それは嵐の終わりを告げる静寂ではなく、これから始まる「真実の審判」を待つ、凛とした静寂だった。
夕刻のキッチンには、刺すような沈黙が満ちていた。
真由美が用意した夕食は、茹ですぎたブロッコリーと、表面が乾ききった焼き魚。それらは「義務」という名の不味(まず)い調味料で塗り潰されていた。
「お義母さん、これ、今月の家計の精算書です」
真由美が、トレイを叩きつけるようにテーブルに置いた。紙の上には、殴り書きのような数字が並んでいる。
「世帯を分ける、ヘルパーを呼ぶ……。結構なことですが、それなら筋を通してくださいね。介護サービスの自己負担分はもちろん、この家の固定資産税の按分、光熱費の超過分、それに私への『管理手数料』。全部合わせたら、お義母さんの年金、一円も残りませんよ?」
真由美は、冷え切った魚の目を箸で突き刺しながら、勝ち誇ったように口角を上げた。その瞳には、経済的に喉元を締め上げれば、老い先短い老婆などすぐに屈服するという、浅はかな確信が宿っている。
「家計の実権は私が握っているんです。一樹さんも『金のことは真由美に任せる』って言いきりましたから。お義母さん、これ以上わがままを通すなら、明日からお財布の中身、空っぽになりますよ?」
真由美の香水の匂いが、湿った部屋の中で澱(よど)んでいる。それはまるで、獲物を追い詰めた獣の吐息のようだった。
園子は、箸を置き、ゆっくりと背筋を伸ばした。
窓の外では、雨上がりの湿った土の匂いが立ち上がっている。
「……管理手数料、ね。面白い言葉を使うわね」
園子の声は、凪いだ海のように静かだった。
「でも、残念ながらその請求書、法的な根拠がどこにもないわ。真由美さん、あなたは私の後見人でもなければ、財産管理の契約を結んだ代理人でもない。ただの『同居人』に、私の資産を一方的に削り取る権利はないのよ」
「はっ、法的な根拠? 何を寝ぼけたことを。ここは家族の家ですよ! 家族の間で法律なんて……」
「家族だからこそ、けじめが必要なのよ。……実は今日、行政書士の息子さんを持つ浩子さんに紹介していただいて、弁護士の先生とお会いしてきたの」
真由美の箸が、カチリと音を立てて皿の上で止まった。
「……弁、護士?」
「ええ。あなたが私の通帳を『管理してあげる』と言い出した時から、準備は始めていたわ。私は今日、**『任意後見契約』**の公正証書を作成するための手続きに入ったの。私が万が一、判断能力を失ったとしても、私の財産を守るのは、あなたではなく、家庭裁判所が監督する後見人になるわ」
真由美の顔から、急速に色が失われていく。
園子はさらに、カバンから一通の封筒を取り出した。
「それから、これ。**『自筆証書遺言書』**の写しよ。原本は法務局に預けてあるわ。この家と土地、そして夫が残してくれたわずかな預金。そのすべてを、誰に、どのような条件で相続させるか、私の意思を明確に記しておいた。……条件の中にはもちろん、『私の尊厳ある生活が維持されること』という項目も入っているわ」
「な……遺言!? お義母さん、一樹さんのことを信じてないんですか!?」
真由美が立ち上がり、椅子が床と擦れて不快な悲鳴を上げた。
「信じているからこそ、あの子をあなたの『共犯者』にしたくないのよ。……真由美さん。あなたが今やろうとしていることは、立派な『経済的虐待』に該当するわ。ヘルパーの田中さんや、ケアマネの佐藤さんには、すでにあなたの『管理手数料』の話、共有してあるの。外部の目が、あなたの数字を監視していると思ってちょうだい」
真由美の肩が、激しく上下した。
彼女は、自分が握っていると思っていた「家計」という名の首輪が、いつの間にか自分自身の首を絞める縄に変わっていることに気づき、戦慄していた。
園子は、目の前の不味そうな魚を見つめた。
「兵糧攻めにするつもりだったのでしょうけれど、甘いわね。私はかつて、会社の一円の使途を巡って銀行と渡り合ってきた人間なのよ。小手先の数字の操作で、私が動揺するとでも思った?」
「……お義母さん、あなた、最初から私を追い出すつもりだったのね」
「いいえ。私はただ、この家を『正しい場所』に戻したいだけよ。あなたが嘘の笑顔で私の財産を掠め取ろうとしなければ、こんな無粋な真似、私もしたくはなかった」
園子は立ち上がり、自分の夕食を手に取った。
そのまま、真由美の前で、ゴミ箱へと静かに滑り落とす。
「もう、あなたの作った食事は必要ないわ。明日からは、宅食サービスを契約したから。もちろん、支払いも私の口座から自動引き落としよ。あなたが私の財布を心配する必要は、もう一分たりともないの」
真由美は、何も言えずに立ち尽くしていた。
リビングに漂う香水の匂いが、外から吹き込んできた夜風にかき消されていく。
園子は自室に戻り、日記を開いた。
**『五月十八日。防壁(リーガル・バリア)の構築完了。敵の経済的封鎖を突破。これで私は、私自身の命のハンドルを取り戻した』**
窓の外では、庭の金木犀が夜の闇に深く沈んでいた。
それは嵐の終わりを告げる静寂ではなく、これから始まる「真実の審判」を待つ、凛とした静寂だった。
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