『私の余生は、私のもの ―同居一週間、嫁に年金通帳を狙われた私の生存戦略―』

かおるこ

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第五話:嫁の計算、外れる

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第五話:嫁の計算、外れる

週明けの月曜日。
九時のチャイムと共に、この家の停滞した空気が物理的に切り裂かれた。

「おはようございます! 今日からお世話になります、ヘルパーの田中です」

玄関に響いた快活な声は、真由美の神経を逆撫でするには十分すぎるほど尖っていた。
リビングでは、箱根旅行の洗濯物に追われていた真由美が、手に持っていた一樹のシャツを床に叩きつけた。パチン、と乾いた音がして、プラスチックのボタンがフローリングで跳ねる。

「お義母さん、本気だったの……?」

真由美は、階段を降りてきた園子を、血走った目で見据えた。彼女からは、昨晩までの高級旅館の余韻など微塵も感じられない。漂うのは、苛立ちという名の猛毒だけだ。

「ええ、言ったでしょう。プロにお任せするって。田中さん、どうぞ入ってください。私の部屋はあちらです」

園子は、真由美の殺気立った視線を柳のように受け流し、ヘルパーの田中を案内した。
田中は慣れた手つきで、園子の部屋の掃除を始める。掃除機の唸り声が家中に響き渡る。それは真由美がかつて園子の部屋から「奪い去った」静寂を、別の形で埋める音だった。

一時間後、掃除を終えた田中が帰ると、真由美は待っていたと言わんばかりに園子に詰め寄った。

「家族の恥だと思わないんですか!」

真由美の叫び声が、廊下に反響する。彼女の顔は怒りで赤黒く、鼻の頭に脂が浮いていた。その指先が、園子の胸元を激しく指差す。

「他人に家の中をジロジロ見られて、汚いところも全部さらけ出して……。近所の人になんて言われるか分かってるんですか? 『あそこのお嫁さんは、お姑さんの世話もできない無能だ』って指を差されるのは、私なんですよ!」

園子は、ゆっくりとダイニングチェアに腰を下ろした。
膝の関節が微かに軋む。その痛みが、かえって彼女の意識をクリアにさせた。

「真由美さん。あなた、箱根の温泉は楽しかった?」

「……は? 何を唐突に」

「あそこのお湯は、美肌の湯で有名だものね。きっと心身ともにリフレッシュできたでしょう? 一樹も満足そうだったわ。……あなたたちは、そうやって自分の時間を楽しんだ。それと同じことよ」

園子は、冷めた湯呑みに指を添えた。
「私も、自分一人の時間を楽しんだの。そして、プロに頼むほうがどれだけ気楽かを知ったわ。あなたに気を遣って『ありがとう』と繰り返すより、対価を払って『助かります』と言うほうが、私の自尊心は守られるのよ」

「金、金って……結局、お金があるからそんな傲慢なことが言えるんでしょう!」

真由美はテーブルを両手で叩いた。ドスンと重い音がして、園子の湯呑みが微かに揺れる。

「私がこれまでにどれだけ尽くしたと思ってるんですか。あの山のような洗濯物、慣れないこの家のキッチン……。それなのに、私を家政婦扱いして、挙げ句の果てに赤の他人を呼び込むなんて、恩知らずにも程があるわ!」

「尽くした、という言葉を使うなら、その中身を精査しましょうか」

園子の声が、一瞬で「経理の鬼」のそれへと切り替わった。
彼女は机の下から、一冊の古いルーズリーフを取り出した。そこには、同居開始からの出費と、真由美が行った「家事」の内容、そして園子の自由が制限された時間が、分単位で記録されている。

「あなたが言う『家事』のうち、私のためのものは三割に満たないわ。あとの七割は、あなたと一樹の生活分よ。それをすべて私の介護にすり替えて、恩を売るのはおやめなさい。……それから、真由美さん。あなたの計算、一つ大きく外れていることがあるわ」

真由美は眉を吊り上げたまま、言葉を失って園子を睨みつける。

「あなたは、私を孤立させれば、いずれ根負けして通帳を差し出すと思っていたでしょう? 週末に私を置いていったのも、その孤独感を煽るため。でも、逆なのよ」

園子は、真由美の瞳の奥を覗き込むようにして言葉を継いだ。

「独りになったことで、私は冷静に数字を見ることができた。外部の目を入れることは、私にとっての『防壁』なの。ケアマネジャーの佐藤さんには、私の全資産の目録と、現在の生活状況をすべて共有してあるわ。万が一、私の口座から不自然な引き出しがあれば、即座に銀行と包括支援センターにアラートが飛ぶように手配済みよ」

真由美の顔から、急速に血の気が引いていく。
彼女は、計算が合わなくなった帳簿を見つめる新人のように、口を微かに開けたまま硬直した。

「……そんな、大袈裟な。一樹さんが黙ってないわよ」

「一樹? ああ、あの子には昨夜、もう話したわ。世帯分離の手続きを進めること、そしてこれからの生活費は、共用部分を除いて完全に別精算にすることを。あの子、なんて言ったと思う? 『ああ、それなら真由美の負担も減るし、いいんじゃないか』って。あの子らしい、無責任で楽観的な返事だったわよ」

真由美の肩が、小刻みに震え始めた。
一樹を盾にして園子を追い詰める。その最大の武器が、一樹自身の「無関心」によって無効化されたのだ。

「真由美さん。あなたが持ち込んだあの甘ったるい香水の匂い、私、本当は最初から苦手だったの。でも、もう大丈夫。これからはヘルパーさんが入れてくれる風が、この家の淀んだ空気を全部外へ運んでくれるわ」

園子は立ち上がり、真由美の横を通り過ぎた。
去り際、真由美の指がワナワナと震えているのが見えた。

「……負けないわよ。こんなの、絶対に認めない」

真由美の絞り出すような呟きが背中に届く。
園子は立ち止まらず、自分の部屋へと戻った。

部屋の中は、田中の掃除によって、隅々まで澄み渡っていた。
園子は日記帳を手に取り、静かにペンを走らせる。

**『五月十五日。第一防衛線の構築に成功。敵の兵糧攻め(孤独作戦)は完全に瓦解した。しかし、窮鼠は猫を噛む。次は数字を使った『罠』を仕掛けてくるはずだ』**

窓の外では、五月雨が止み、強い日差しが濡れた瓦を照らし始めていた。
園子は計算機の「AC」キーを強く押した。
すべてをゼロにして、新しい戦いを始めるために。

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