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第4話:経済的虐待という言葉
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第4話:経済的虐待という言葉
その日、リビングに差し込む陽光は、埃を白く浮き立たせていた。
かつては「陽だまり」と呼んでいたその光さえ、今は自分たちの生活の荒廃を照らし出すスポットライトのように感じられて、澄子は目を逸らした。
テーブルを挟んで、一人の若い女性が座っている。
地域包括支援センターから来た、安達という支援員だ。彼女は、澄子が震える手で差し出した、残高が数千円になった通帳と、山のような督促状を静かに見つめていた。
「お父様の心臓の薬、先週から切れているんですね」
安達の声は、穏やかだが、それゆえに現実を鋭く突き刺す。
「……はい。晃が、あの子がカードを持っていて、どうしても返してくれなくて。病院代を出すと言っても、『俺の再就職がかかってるんだ、親ならそれくらい我慢しろ』って……」
澄子の横で、修一は黙ってうなだれていた。
かつては一家の大黒柱として厳格だった夫が、今はまるでお化けでも見たかのように小さく縮こまっている。その頬は、薄い味噌汁だけの生活で、一週間前よりも明らかに削げ落ちていた。
「澄子さん、修一さん。よく聞いてください」
安達が二人の顔をまっすぐに見据えた。
「これは『家族の甘え』や『親子の不仲』ではありません。行政の定義では、これは**経済的虐待**に当たります。そして、医療の拒否はネグレクトの一種です。今、この家で起きていることは、立派な人権侵害なんです」
虐待。
その言葉が、澄子の耳の中で不吉な鐘のように鳴り響く。
自分が産んだ子に、自分たちが虐待されている。それを認めることは、自分の半生を全否定するよりも苦しいことだった。
その時、奥の部屋の引き戸が激しく開いた。
「何が虐待だ、勝手なこと抜かしやがって!」
晃だった。
昼過ぎまで寝ていたのか、髪は脂ぎって逆立ち、目は血走っている。手には、昨日澄子が隠しておいた数少ない小銭で買ったのであろう、エナジードリンクの缶が握られていた。
「安っぽい正義感で他人の家庭に土足で踏み込んでくるんじゃねえよ! 俺たちは家族だ。家族の間で金の貸し借りがあるのは当然だろ! 他人が口出すな、消えろ!」
晃の怒号が、狭い居間に叩きつけられる。飛沫がテーブルに飛び、澄子は思わず肩を竦めた。
だが、安達は怯まなかった。
「晃さん。あなたがしているのは『貸し借り』ではありません。抵抗できない高齢の両親から生存権を奪っているんです。お父様の体調に何かあったら、あなたは保護責任者遺棄致死に問われる可能性もあるんですよ」
「うるせえ! 脅してんのか!? 俺は今、必死で人生を立て直そうとしてるんだ! その邪魔をする奴は、親だろうが他人だろうが許さねえ!」
晃がエナジードリンクの缶をテーブルに叩きつけた。中身が溢れ、甘ったるい化学的な匂いが鼻を突く。
その瞬間、澄子の中で、ずっと張り詰めていた何かが、パチン、と音を立てて切れた。
「晃。……いい加減にして」
澄子は、生まれて初めて、息子に対して低く、冷たい声を出した。
晃が、面食らったように母親を見た。
「何だよ、母さんまで……」
「このままじゃ、私たちが死ぬの」
澄子は、自分の声を自分で聞いているような、妙に冷めた感覚の中にいた。
「あなたが、その……『成功』のために使う一万円はね、お父さんの心臓を動かす薬なのよ。あなたがゲームのキャラクターを強くするために使う五千円はね、私たちが一週間食べるための食糧なの。あなたはね、私たちの命を食べてるのよ」
「……母さん」
「もう、あの子じゃない。私の知ってる晃じゃないわ。あんなに優しくて、お父さんの肩を叩いてくれた、あの晃は死んだのね」
澄子の目から、一筋の涙がこぼれ、畳に染み込んだ。
悲しみはもう、通り過ぎていた。残っているのは、ただ純粋な「生存への恐怖」だった。
「出て行って。……お願いだから、私たちをこれ以上、殺さないで」
晃の顔が、怒りから卑屈な歪みへと変わる。
「……何だよ。実の親が、息子を路頭に迷わせるっていうのか? 冷たいな、あんたたち。俺が自殺してもいいのかよ!」
「他人のせいにするのは、もうやめなさい」
安達が、静かに介入した。
「晃さん。あなたが自分の足で立つためには、この家から離れることが第一歩です。これ以上ここにいても、共倒れになるだけです」
晃は、吐き捨てて部屋に戻ろうとした。だが、安達はその背中に向かって、毅然と言い放った。
「修一さん、澄子さん。今の状態では、晃さんを強制的に入院させることは法的に非常にハードルが高いですが……彼からあなたたちを守る方法はあります」
安達は、カバンから一冊の資料を取り出し、二人の前に置いた。
「**世帯分離**という方法があります」
「せたい……ぶんり?」
「住民票の上で、世帯を分けるんです。そうすれば、晃さんが無収入であれば、彼は彼で生活保護の申請もできるようになります。そして、何より重要なのは……」
安達は、声を潜めて、だがはっきりと言った。
「住所の閲覧制限をかけ、家を離れる。法的に『あなたたちには彼を養う義務はない』という境界線を、公的に引き直すんです。それは、晃さんを捨てることではありません。あなたたちが、人間として生きる権利を取り戻すための手続きです」
「境界線……」
澄子は、その言葉を反芻した。
第1話で自分が感じた、あの「ただいま」という名の境界線。それは、もはや自分たちだけでは守れないほど、ボロボロに崩されていたのだ。
奥の部屋からは、また何かを叩きつけるような音が響いた。
澄子は、修一の手を握った。その手は、冷たく、骨の感触しかしないほど痩せ細っていた。
「……やりましょう、お父さん」
修一は、ゆっくりと、深く頷いた。
窓の外では、夕暮れの鴉が鳴いている。
地獄のような共同生活の終わりが見えたようでいて、それは同時に、血を分けた我が子を「加害者」として公的に切り離すという、親としての究極の絶望の始まりでもあった。
---
第4話 完
その日、リビングに差し込む陽光は、埃を白く浮き立たせていた。
かつては「陽だまり」と呼んでいたその光さえ、今は自分たちの生活の荒廃を照らし出すスポットライトのように感じられて、澄子は目を逸らした。
テーブルを挟んで、一人の若い女性が座っている。
地域包括支援センターから来た、安達という支援員だ。彼女は、澄子が震える手で差し出した、残高が数千円になった通帳と、山のような督促状を静かに見つめていた。
「お父様の心臓の薬、先週から切れているんですね」
安達の声は、穏やかだが、それゆえに現実を鋭く突き刺す。
「……はい。晃が、あの子がカードを持っていて、どうしても返してくれなくて。病院代を出すと言っても、『俺の再就職がかかってるんだ、親ならそれくらい我慢しろ』って……」
澄子の横で、修一は黙ってうなだれていた。
かつては一家の大黒柱として厳格だった夫が、今はまるでお化けでも見たかのように小さく縮こまっている。その頬は、薄い味噌汁だけの生活で、一週間前よりも明らかに削げ落ちていた。
「澄子さん、修一さん。よく聞いてください」
安達が二人の顔をまっすぐに見据えた。
「これは『家族の甘え』や『親子の不仲』ではありません。行政の定義では、これは**経済的虐待**に当たります。そして、医療の拒否はネグレクトの一種です。今、この家で起きていることは、立派な人権侵害なんです」
虐待。
その言葉が、澄子の耳の中で不吉な鐘のように鳴り響く。
自分が産んだ子に、自分たちが虐待されている。それを認めることは、自分の半生を全否定するよりも苦しいことだった。
その時、奥の部屋の引き戸が激しく開いた。
「何が虐待だ、勝手なこと抜かしやがって!」
晃だった。
昼過ぎまで寝ていたのか、髪は脂ぎって逆立ち、目は血走っている。手には、昨日澄子が隠しておいた数少ない小銭で買ったのであろう、エナジードリンクの缶が握られていた。
「安っぽい正義感で他人の家庭に土足で踏み込んでくるんじゃねえよ! 俺たちは家族だ。家族の間で金の貸し借りがあるのは当然だろ! 他人が口出すな、消えろ!」
晃の怒号が、狭い居間に叩きつけられる。飛沫がテーブルに飛び、澄子は思わず肩を竦めた。
だが、安達は怯まなかった。
「晃さん。あなたがしているのは『貸し借り』ではありません。抵抗できない高齢の両親から生存権を奪っているんです。お父様の体調に何かあったら、あなたは保護責任者遺棄致死に問われる可能性もあるんですよ」
「うるせえ! 脅してんのか!? 俺は今、必死で人生を立て直そうとしてるんだ! その邪魔をする奴は、親だろうが他人だろうが許さねえ!」
晃がエナジードリンクの缶をテーブルに叩きつけた。中身が溢れ、甘ったるい化学的な匂いが鼻を突く。
その瞬間、澄子の中で、ずっと張り詰めていた何かが、パチン、と音を立てて切れた。
「晃。……いい加減にして」
澄子は、生まれて初めて、息子に対して低く、冷たい声を出した。
晃が、面食らったように母親を見た。
「何だよ、母さんまで……」
「このままじゃ、私たちが死ぬの」
澄子は、自分の声を自分で聞いているような、妙に冷めた感覚の中にいた。
「あなたが、その……『成功』のために使う一万円はね、お父さんの心臓を動かす薬なのよ。あなたがゲームのキャラクターを強くするために使う五千円はね、私たちが一週間食べるための食糧なの。あなたはね、私たちの命を食べてるのよ」
「……母さん」
「もう、あの子じゃない。私の知ってる晃じゃないわ。あんなに優しくて、お父さんの肩を叩いてくれた、あの晃は死んだのね」
澄子の目から、一筋の涙がこぼれ、畳に染み込んだ。
悲しみはもう、通り過ぎていた。残っているのは、ただ純粋な「生存への恐怖」だった。
「出て行って。……お願いだから、私たちをこれ以上、殺さないで」
晃の顔が、怒りから卑屈な歪みへと変わる。
「……何だよ。実の親が、息子を路頭に迷わせるっていうのか? 冷たいな、あんたたち。俺が自殺してもいいのかよ!」
「他人のせいにするのは、もうやめなさい」
安達が、静かに介入した。
「晃さん。あなたが自分の足で立つためには、この家から離れることが第一歩です。これ以上ここにいても、共倒れになるだけです」
晃は、吐き捨てて部屋に戻ろうとした。だが、安達はその背中に向かって、毅然と言い放った。
「修一さん、澄子さん。今の状態では、晃さんを強制的に入院させることは法的に非常にハードルが高いですが……彼からあなたたちを守る方法はあります」
安達は、カバンから一冊の資料を取り出し、二人の前に置いた。
「**世帯分離**という方法があります」
「せたい……ぶんり?」
「住民票の上で、世帯を分けるんです。そうすれば、晃さんが無収入であれば、彼は彼で生活保護の申請もできるようになります。そして、何より重要なのは……」
安達は、声を潜めて、だがはっきりと言った。
「住所の閲覧制限をかけ、家を離れる。法的に『あなたたちには彼を養う義務はない』という境界線を、公的に引き直すんです。それは、晃さんを捨てることではありません。あなたたちが、人間として生きる権利を取り戻すための手続きです」
「境界線……」
澄子は、その言葉を反芻した。
第1話で自分が感じた、あの「ただいま」という名の境界線。それは、もはや自分たちだけでは守れないほど、ボロボロに崩されていたのだ。
奥の部屋からは、また何かを叩きつけるような音が響いた。
澄子は、修一の手を握った。その手は、冷たく、骨の感触しかしないほど痩せ細っていた。
「……やりましょう、お父さん」
修一は、ゆっくりと、深く頷いた。
窓の外では、夕暮れの鴉が鳴いている。
地獄のような共同生活の終わりが見えたようでいて、それは同時に、血を分けた我が子を「加害者」として公的に切り離すという、親としての究極の絶望の始まりでもあった。
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第4話 完
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