『二十万円の檻』

かおるこ

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第7話:線を引く日

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第7話:線を引く日

梅雨入り前の湿った風が、居間の薄いカーテンを力なく揺らしていた。
テーブルの上には、区役所から届いた「世帯分離」の受理通知と、新しく作り直された健康保険証が置かれている。それは、一つの家の中で、一つの家族が二つに割れたことを示す、無機質な宣告書だった。

支援員の安達は、いつものように穏やかだが、一点の曇りもない視線で三人を交互に見た。

「これで、手続きは完了です。住民票の上では、晃さんは『野村家』という世帯ではなく、独立した一人の世帯主になりました。これで晃さんは、ご両親の収入に左右されず、単独で生活保護の申請や、障害年金の受給が受けられるようになります」

安達の説明は明快だった。だが、その言葉が部屋に落ちるたび、修一は自分の心臓が薄氷の上を歩かされているような、危うい痛みを感じていた。

「……家族なのに。同じ屋根の下にいて、同じ飯を食うこともあるっていうのに、わざわざ線を引くのか。そんな、他人みたいな真似を……」

修一の絞り出すような声に、安達は小さく、だが断固として首を振った。
「修一さん。その『家族だから』という絆が、今はあなた方を窒息させているんです。線を引くのは、突き放すためではありません。お互いが自分の足で立つための、命綱なんです」

「生きるために、引くのよ。お父さん」

澄子が、静かに言葉を添えた。彼女の視線は、テーブルの上の新しい保険証に固定されている。そこには、世帯主として「野村晃」の名が記されていた。

「このまま混ざり合っていたら、いつか誰かが誰かを殺してしまう。あの子の絶望が、私たちの生活を飲み込んで、みんなで泥沼に沈んでいく。そんなの、もう嫌なの」

その時、奥の部屋のドアが激しく開き、晃が飛び出してきた。
彼は自分の名前が記された書類をひったくるように手に取ると、裏返った声で吠えた。

「結局、追い出すんだろ! 厄介払いだろ、これ! 世帯分離なんて格好つけて言ってるけど、俺を他人だって宣言したんだろ。俺が邪魔になったから、法的に切り捨てたんだ!」

晃の顔は屈辱で赤黒く染まり、その瞳には再び、あの狂気じみた怒りが宿っていた。

「違うわ、晃」

澄子は立ち上がり、逃げようとする息子の視線を真っ向から受け止めた。
「追い出すんじゃない。あなたの人生を、あなたに返すのよ」

「……返す?」

「そうよ。あなたの失敗も、あなたの病気も、あなたのこれからのお金も。全部私たちのせいにさせてしまった。だからあなたは、いつまでも私たちの年金を奪うことでしか、自分を保てなかった。でも、もうそれはおしまい。あなたのお金は、国からもらうあなたの権利。私たちの財布じゃなくて、あなたの財布で、あなたは自分の人生の責任を取るの」

澄子は、台所の棚の奥から、用意していた新しい茶封筒を取り出した。
中には、晃の個人名義で新しく作った通帳と、そのキャッシュカードが入っている。

「これ。あなたの分よ」

澄子はそれを、晃の震える手の中に押し付けた。
「今までのカードは、お父さんが預かります。あの中には、私たちが死ぬまでの生活費が入ってる。一円も、もう渡さない。でも、この新しい通帳には、あなたの障害年金と、生活支援のわずかなお金が入ってくる。それをどう使うかは、あなたの自由。課金して一晩で使い果たして、次の日から餓死しそうになっても、私たちはもう助けないわ。……助けられないの」

晃は、手の中のプラスチックのカードを、初めて見る異物のように見つめた。
「……助けない? 母さんが、俺を助けないって……」

「ええ。安達さんと相談して、役所にも『家族による金銭援助は不可能』だと正式に届けたわ。あなたが困ったら、助けるのは私たちじゃない。国であり、福祉であり、あなた自身なの」

静寂が部屋を満たした。
時計の秒針の音だけが、カチ、カチと、親子の縁が物理的に削り取られていく音のように響く。

晃は、通帳を握りしめたまま、力なく畳に膝をついた。
「……怖いよ。俺、ひとりで管理なんてできない。また使い切っちゃうかもしれない」

「そのために、安達さんたちがついているのよ。金銭管理の支援も、プログラムもある。あなたは一人だけど、独りじゃないわ」

澄子は、膝をつく息子の頭を、そっと撫でようとして……その手を止めた。
今、この手を伸ばしてしまったら、引いたばかりの線が、また曖昧に溶けてしまう。
澄子は拳を握り、自分の胸元に引き寄せた。

「お父さんのカードは、これ。お前のカードは、それだ」

修一が、古い、使い古された自分のカードをテーブルに置いた。
「これで、別々だ。晃、お前は今日から、この家の住人じゃなく、『野村家の中に住む、野村晃という一人の大人』なんだ。飯を分ける日もあるだろう。光熱費を請求する日もあるだろう。……それが、生きるっていうことだ」

晃は返事をしなかった。ただ、新しいキャッシュカードの冷たい感触を確かめるように、何度も何度も、親指でなぞっていた。

安達が立ち上がり、カバンを肩にかけた。
「……第一歩ですね。今日は、お互いにお疲れ様でした」

支援員が去った後の玄関で、澄子はいつまでも、鍵の音を聞いていた。
カチリ。
閉ざされたドアの向こうには、かつて「家族」という幻想に包まれていた地獄がある。
だが、手元にある自分の通帳は、あの日よりも少しだけ、その意味が明確になっていた。

「お父さん。……今夜は、別々に食べましょうか」

澄子の問いに、修一は窓の外の暮れゆく街を見つめたまま、静かに頷いた。

同じ家の中に、二つの財布がある。
二つの人生がある。
それは、あまりにも寂しく、そしてあまりにも清々しい、決別の朝への準備だった。
澄子の手は、もう震えていなかった。

---

第7話 完

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