私は弟のために生まれたんじゃない 〜「お姉ちゃんなんだから」と人生を搾取された私、弁護士になったのでクズ家族に返還請求します〜

かおるこ

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第1話 地獄の食卓

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第1話 地獄の食卓

フライパンの油が、じゅっと小さくはねた。
熱気が顔に当たり、額に汗がにじむ。紬は菜箸で肉をひっくり返しながら、台所の小さな換気扇の音をぼんやり聞いていた。

リビングから笑い声が聞こえる。

「いい匂いしてるじゃん」

弟の駿の声だった。

「今日はステーキよ。駿、最近疲れてるでしょう?」

母がやさしい声を出す。

紬はフライパンの火を弱めた。肉の焼ける匂いが台所いっぱいに広がる。腹の奥がきゅっと鳴った。

「紬、まだ?」

母の声が飛んでくる。

「今、焼ける」

皿を三枚並べる。白い皿の上にステーキを乗せると、肉汁がじわりと広がった。黒胡椒の香りが鼻をくすぐる。

その皿をリビングへ運ぶ。

父はソファに座り、テレビを見ている。駿はスマートフォンをいじりながら足を投げ出していた。

「お、いいじゃん」

駿が笑う。

「うまそう」

母は満足そうに頷いた。

「紬は料理が上手ね」

その言葉を、紬は何度も聞いてきた。褒め言葉のようで、ただの役割確認だともう分かっている。

「ご飯よ」

母が言う。

父と駿はすぐに席についた。

ナイフが皿に当たる音がする。肉を切る音。ソースの匂い。テレビの笑い声。

紬はそのまま台所へ戻った。

シンクの横に、小さな皿が置いてある。そこには昨日の残りの煮物と、固くなったパンの耳。

それが紬の夕飯だった。

椅子はない。立ったままパンをかじる。冷たい味が口の中に広がった。

そのときだった。

リビングから声がする。

「おい」

駿だ。

紬は顔を上げた。

「なに?」

駿はフォークを持ったまま、皿を持ち上げた。

「ソース足りねえ」

紬はソースの瓶を持って行く。

その瞬間だった。

駿がフォークを軽く振った。

とろりと赤いソースが床に落ちる。

ぽたり。

もう一滴。

紬は床を見つめた。

駿が笑う。

「おい、雑用。拭いとけ」

紬は何も言わなかった。

母がくすっと笑う。

「駿、そんな言い方しないの」

そう言いながら、まったく叱る気配はない。

母は紬を見る。

「紬、お姉ちゃんでしょ」

その言葉を聞いた瞬間、紬の胸の奥が少しだけ冷えた。

母は続ける。

「駿は朝倉家を継ぐ大事な子なんだから。あなたがちゃんとしてあげないと」

父も肉を切りながら言った。

「そうだな」

ナイフが皿に当たる。

「紬の給料があるから家が回るんだ」

その言葉は、感謝でも何でもなかった。ただの事実確認のようだった。

駿が言う。

「早く拭けよ」

紬はしゃがんだ。

雑巾でソースを拭き取る。甘い匂いが鼻に残る。床は少しべたついた。

その間も、テーブルでは食事が続いている。

「うまいな」

父が言う。

「でしょ?」

母が嬉しそうに笑う。

「紬が焼いたのよ」

駿が肉を口に入れる。

「もっと作れよ」

紬は雑巾を絞った。冷たい水が指にしみる。

「聞いてんの?」

駿が言う。

「はい」

紬は立ち上がった。

台所に戻る。パンの耳はもう乾いていた。

かじると、ぼそぼそと崩れた。

そのとき、胸の奥に固いものが当たった。

ポケットの中。

紬はそっと手を入れる。

紙の感触。

折れ曲がった封筒。

そこには小さな文字が書かれている。

司法試験予備試験 願書

紬は一瞬だけ目を閉じた。

油の匂い。
ソースの甘い匂い。
冷たい床。
テレビの笑い声。

全部が混ざり合って、胸の奥で渦を巻く。

リビングから駿の声がする。

「おい紬!」

「なに」

「水」

紬はコップを持っていく。

駿は受け取りながら言った。

「姉ちゃんさ」

「なに」

「ほんと便利だよな」

母が笑う。

「紬は優しいからね」

父はテレビを見たまま言う。

「お姉ちゃんなんだから当然だ」

その言葉が、空気の中に静かに沈んだ。

紬はコップを置き、台所に戻る。

ポケットの中の紙を、そっと握った。

くしゃりと小さな音がする。

胸の奥で、何かがゆっくり動いた。

紬は小さく息を吐いた。

誰にも聞こえない声でつぶやく。

「……違う」

もう一度。

「違う」

手の中の願書が少しだけ温かい。

紬は目を開けた。

私は。

私は。

静かに心の中で言う。

私は、私の人生を生きる。

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