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第2話 奪われた未来
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第2話 奪われた未来
朝の空気はまだ冷たかった。
窓の外は薄い灰色の空で、遠くの電線に止まったカラスが鳴いている。
紬は制服の上にコートを羽織りながら、鏡の前で小さく息を吐いた。
今日は受験日だ。
机の上には受験票。
封筒から取り出したそれを、何度も見直した。
「……忘れてないよね」
ペン。
受験票。
交通費。
腕時計。
全部、鞄に入っている。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
でもそれは、不安よりも期待に近かった。
大学。
図書館。
知らない町。
新しい教室。
今までと違う場所。
紬は小さく笑った。
「よし」
玄関に向かう。
そのときだった。
二階から、どん、と鈍い音がした。
次の瞬間、悲鳴。
「いたっ……!」
母の声だった。
紬は思わず振り向いた。
「お母さん?」
階段の上から母が座り込んでいる。
手すりにしがみつきながら、顔をゆがめている。
「いたい……」
紬は駆け寄った。
「どうしたの」
母は足を押さえている。
「階段……踏み外して……」
息を荒くして言う。
「立てない……」
紬の胸がざわついた。
「病院……」
その言葉を言いかけたとき、後ろから声が飛んだ。
「うるせえな」
弟の駿だった。
寝ぐせのまま、階段の下に立っている。
「朝から騒ぐなよ」
母が苦しそうな声を出す。
「駿……ちょっと……」
駿はため息をついた。
「はあ?」
紬が言う。
「お母さんが階段から落ちて」
「で?」
駿は腕を組んだ。
「俺の飯どうすんだよ」
紬は言葉を失った。
「今日、受験で」
そう言いかけると、駿は眉をひそめた。
「は?」
「今日大学だろ」
紬はうなずく。
駿は鼻で笑った。
「そんなのどうでもいいだろ」
母が弱々しい声を出す。
「紬……」
紬は母を見る。
「ちょっと動けないの……」
母の顔は痛そうに歪んでいる。
「病院……」
紬が言うと、母は首を振った。
「大丈夫……でも……」
手を伸ばす。
「少しそばにいて」
その手が、紬の袖をつかんだ。
紬の胸の奥がざわつく。
玄関の方を見る。
靴。
鞄。
受験票。
時計を見る。
時間が進んでいる。
そのとき、居間から父の声がした。
「なんだ朝から」
新聞を持ったまま父が出てくる。
状況を見て、眉をひそめた。
「どうした」
母が言う。
「階段で……」
父は少しだけ母を見た。
それから紬を見る。
「今日は何の日だ」
紬は答えた。
「受験」
父は新聞をたたむ。
「ふーん」
それだけだった。
紬の胸が冷える。
「でもお母さんが」
紬が言うと、父は肩をすくめた。
「家族より大学が大事なのか」
その言葉が、空気を凍らせた。
紬は父を見る。
「そんなこと」
父は静かに言った。
「母親が動けないのに出かけるのか」
駿が笑う。
「姉ちゃんさ」
紬は振り向く。
「俺の飯どうすんだよ」
その言葉が胸に刺さる。
「冷蔵庫に」
「作れよ」
駿は言う。
「いつもみたいに」
紬は時計を見る。
時間はもう余裕がない。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
大学。
図書館。
教室。
知らない未来。
母の手が袖をつかむ。
「紬……」
弱い声。
「ごめんね……」
紬は目を閉じた。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
それから、静かに鞄を床に置いた。
玄関の空気が急に遠くなる。
紬はキッチンに向かった。
米を研ぐ。
水の冷たさが指に刺さる。
炊飯器の蓋を閉める。
フライパンを火にかける。
油の匂いが広がる。
後ろから駿の声。
「お、助かる」
母の声。
「紬は優しいわね」
父は新聞をめくる。
「やっぱりお姉ちゃんだな」
紬は何も言わない。
卵を割る。
殻が少し指に当たる。
じゅっと音がする。
油の中で白身が広がる。
湯気が目にしみた。
涙が出そうになる。
でも泣かなかった。
ただ、フライパンを見つめた。
その日、紬は受験に行かなかった。
時計は静かに進み続けていた。
知らない町。
大学の門。
教室。
そのすべてが、遠くの夢のように消えていった。
朝ごはんが出来上がる。
「できたよ」
紬が言う。
駿が席につく。
「遅え」
母が笑う。
「紬はほんといい子」
父は頷く。
「お姉ちゃんなんだから当然だ」
その言葉が、また胸に落ちた。
紬は皿を並べる。
手は少しだけ震えていた。
でも誰も気づかなかった。
この日から。
紬の未来は。
少しずつ、静かに奪われていった。
朝の空気はまだ冷たかった。
窓の外は薄い灰色の空で、遠くの電線に止まったカラスが鳴いている。
紬は制服の上にコートを羽織りながら、鏡の前で小さく息を吐いた。
今日は受験日だ。
机の上には受験票。
封筒から取り出したそれを、何度も見直した。
「……忘れてないよね」
ペン。
受験票。
交通費。
腕時計。
全部、鞄に入っている。
胸の奥が少しだけ落ち着かない。
でもそれは、不安よりも期待に近かった。
大学。
図書館。
知らない町。
新しい教室。
今までと違う場所。
紬は小さく笑った。
「よし」
玄関に向かう。
そのときだった。
二階から、どん、と鈍い音がした。
次の瞬間、悲鳴。
「いたっ……!」
母の声だった。
紬は思わず振り向いた。
「お母さん?」
階段の上から母が座り込んでいる。
手すりにしがみつきながら、顔をゆがめている。
「いたい……」
紬は駆け寄った。
「どうしたの」
母は足を押さえている。
「階段……踏み外して……」
息を荒くして言う。
「立てない……」
紬の胸がざわついた。
「病院……」
その言葉を言いかけたとき、後ろから声が飛んだ。
「うるせえな」
弟の駿だった。
寝ぐせのまま、階段の下に立っている。
「朝から騒ぐなよ」
母が苦しそうな声を出す。
「駿……ちょっと……」
駿はため息をついた。
「はあ?」
紬が言う。
「お母さんが階段から落ちて」
「で?」
駿は腕を組んだ。
「俺の飯どうすんだよ」
紬は言葉を失った。
「今日、受験で」
そう言いかけると、駿は眉をひそめた。
「は?」
「今日大学だろ」
紬はうなずく。
駿は鼻で笑った。
「そんなのどうでもいいだろ」
母が弱々しい声を出す。
「紬……」
紬は母を見る。
「ちょっと動けないの……」
母の顔は痛そうに歪んでいる。
「病院……」
紬が言うと、母は首を振った。
「大丈夫……でも……」
手を伸ばす。
「少しそばにいて」
その手が、紬の袖をつかんだ。
紬の胸の奥がざわつく。
玄関の方を見る。
靴。
鞄。
受験票。
時計を見る。
時間が進んでいる。
そのとき、居間から父の声がした。
「なんだ朝から」
新聞を持ったまま父が出てくる。
状況を見て、眉をひそめた。
「どうした」
母が言う。
「階段で……」
父は少しだけ母を見た。
それから紬を見る。
「今日は何の日だ」
紬は答えた。
「受験」
父は新聞をたたむ。
「ふーん」
それだけだった。
紬の胸が冷える。
「でもお母さんが」
紬が言うと、父は肩をすくめた。
「家族より大学が大事なのか」
その言葉が、空気を凍らせた。
紬は父を見る。
「そんなこと」
父は静かに言った。
「母親が動けないのに出かけるのか」
駿が笑う。
「姉ちゃんさ」
紬は振り向く。
「俺の飯どうすんだよ」
その言葉が胸に刺さる。
「冷蔵庫に」
「作れよ」
駿は言う。
「いつもみたいに」
紬は時計を見る。
時間はもう余裕がない。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
大学。
図書館。
教室。
知らない未来。
母の手が袖をつかむ。
「紬……」
弱い声。
「ごめんね……」
紬は目を閉じた。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
それから、静かに鞄を床に置いた。
玄関の空気が急に遠くなる。
紬はキッチンに向かった。
米を研ぐ。
水の冷たさが指に刺さる。
炊飯器の蓋を閉める。
フライパンを火にかける。
油の匂いが広がる。
後ろから駿の声。
「お、助かる」
母の声。
「紬は優しいわね」
父は新聞をめくる。
「やっぱりお姉ちゃんだな」
紬は何も言わない。
卵を割る。
殻が少し指に当たる。
じゅっと音がする。
油の中で白身が広がる。
湯気が目にしみた。
涙が出そうになる。
でも泣かなかった。
ただ、フライパンを見つめた。
その日、紬は受験に行かなかった。
時計は静かに進み続けていた。
知らない町。
大学の門。
教室。
そのすべてが、遠くの夢のように消えていった。
朝ごはんが出来上がる。
「できたよ」
紬が言う。
駿が席につく。
「遅え」
母が笑う。
「紬はほんといい子」
父は頷く。
「お姉ちゃんなんだから当然だ」
その言葉が、また胸に落ちた。
紬は皿を並べる。
手は少しだけ震えていた。
でも誰も気づかなかった。
この日から。
紬の未来は。
少しずつ、静かに奪われていった。
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