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第3話 終わらない搾取
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第3話 終わらない搾取
工場のサイレンが、朝の空気を震わせた。
紬はヘルメットをかぶり直し、作業ラインの前に立つ。金属の匂いと油の匂いが混ざった重たい空気が、胸の奥にまで入り込んでくる。
「紬、今日も早いな」
隣のパートの女性が声をかけた。
「おはようございます」
紬は小さく頭を下げる。
コンベアが動き出す。
ガタン、ガタン、と規則的な音が響く。
部品を取り、はめ込み、ネジを締める。
その作業を、何百回も繰り返す。
単純な作業なのに、夕方になる頃には腕が重くなる。指先がじんじんと痛い。
昼休み。
食堂の隅の席で、紬は弁当を開いた。白いご飯と卵焼き、昨夜の残りの煮物。
「紬、実家暮らしだっけ?」
同僚が聞く。
「うん」
「いいなあ。家に帰ればご飯あるんでしょ?」
紬は少しだけ笑った。
「まあ……」
本当のことは言わない。
家に帰っても、紬が作る側だ。
夕方、仕事が終わる。
更衣室で制服を脱ぐと、肩が軽くなる。ロッカーの中から封筒を取り出す。
給料袋。
指で触れると、紙の角が少し硬い。
紬はそれを鞄にしまい、家へ向かった。
玄関を開けると、ゲームの音が聞こえる。
「ただいま」
居間のソファで、駿がゲーム機を握っていた。
「おう」
画面から目を離さない。
テーブルには空き缶と菓子袋が散らばっている。
「飯は?」
「今から作る」
「は? 遅えよ」
紬は靴を脱いで台所に向かう。
冷蔵庫を開けると、ほとんど空だった。
卵と、少しの野菜だけ。
ため息を飲み込む。
そのとき、母が台所に入ってきた。
「紬」
「うん」
紬は鞄から給料袋を出した。
母は何も言わず手を伸ばす。
紬はその手に袋を渡した。
母は中身を確認する。
紙幣を数える音がする。
「今月は少ないわね」
「残業少なかったから」
母は頷く。
「まあいいわ」
財布にお金を入れる。
「家の生活費」
それから、少し間を置いて言った。
「駿の学費」
紬は黙っていた。
母は振り返る。
「なに?」
「……ううん」
何も言わない。
居間から駿の声。
「おーい」
「なに」
「腹減った」
紬は鍋を火にかける。
野菜を切る音が静かに響く。
「姉ちゃん」
駿が台所の入り口に立っていた。
Tシャツの袖から、新しい腕時計が見える。
「それ」
紬が言う。
「時計?」
駿は腕を見た。
「ああ」
にやっと笑う。
「かっこいいだろ」
「新しいの?」
「昨日買った」
紬は手を止めた。
「お金……」
駿は肩をすくめる。
「母さんにもらった」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「姉ちゃん」
駿が冷蔵庫を開けながら言う。
「俺、来週バイク買うから」
紬は振り向く。
「バイク?」
「うん」
「お金は」
駿は笑う。
「あるに決まってんだろ」
「どこから」
駿は不思議そうに言う。
「家の金だよ」
紬は言葉を失った。
「駿」
「なに」
「大学……」
駿は面倒くさそうに言った。
「辞めた」
紬は息を止めた。
「つまんねーんだもん」
軽い声だった。
「別に働かなくても生きていけるし」
紬は鍋を見つめた。
湯気がゆっくり上がっている。
駿が言う。
「姉ちゃん」
「なに」
「そんな顔すんなよ」
冷蔵庫のジュースを飲みながら笑う。
「姉ちゃんが働けばいいじゃん」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
「姉ちゃんなんだから当然だろ」
紬は何も言えなかった。
鍋の中のスープが小さく揺れている。
木のスプーンで混ぜる。
台所の窓の外はもう暗かった。
夜の空気が静かに広がっている。
紬はふと、自分の手を見た。
油と水で荒れた指。
小さな傷。
工場の金属の匂いがまだ残っている。
その手で。
家族のご飯を作り。
家族の生活を支え。
自分の給料を渡している。
胸の奥で、何かが少しずつ削れていく。
駿がソファに戻る。
「飯まだ?」
「もうすぐ」
紬は鍋の火を止めた。
皿を並べる。
父が帰ってくる。
「腹減った」
母が笑う。
「紬が作ってるわよ」
父は頷く。
「紬はよく働くな」
駿が言う。
「ほんと便利」
母が言う。
「お姉ちゃんなんだから当然よ」
その言葉が、また静かに落ちた。
紬は皿を並べながら思う。
自分の未来は、どこへ行ったのだろう。
大学。
知らない町。
新しい世界。
それはもう、遠い夢のようだった。
ただ一つだけ分かることがある。
この家では。
紬の人生は。
少しずつ、静かに使われている。
工場のサイレンが、朝の空気を震わせた。
紬はヘルメットをかぶり直し、作業ラインの前に立つ。金属の匂いと油の匂いが混ざった重たい空気が、胸の奥にまで入り込んでくる。
「紬、今日も早いな」
隣のパートの女性が声をかけた。
「おはようございます」
紬は小さく頭を下げる。
コンベアが動き出す。
ガタン、ガタン、と規則的な音が響く。
部品を取り、はめ込み、ネジを締める。
その作業を、何百回も繰り返す。
単純な作業なのに、夕方になる頃には腕が重くなる。指先がじんじんと痛い。
昼休み。
食堂の隅の席で、紬は弁当を開いた。白いご飯と卵焼き、昨夜の残りの煮物。
「紬、実家暮らしだっけ?」
同僚が聞く。
「うん」
「いいなあ。家に帰ればご飯あるんでしょ?」
紬は少しだけ笑った。
「まあ……」
本当のことは言わない。
家に帰っても、紬が作る側だ。
夕方、仕事が終わる。
更衣室で制服を脱ぐと、肩が軽くなる。ロッカーの中から封筒を取り出す。
給料袋。
指で触れると、紙の角が少し硬い。
紬はそれを鞄にしまい、家へ向かった。
玄関を開けると、ゲームの音が聞こえる。
「ただいま」
居間のソファで、駿がゲーム機を握っていた。
「おう」
画面から目を離さない。
テーブルには空き缶と菓子袋が散らばっている。
「飯は?」
「今から作る」
「は? 遅えよ」
紬は靴を脱いで台所に向かう。
冷蔵庫を開けると、ほとんど空だった。
卵と、少しの野菜だけ。
ため息を飲み込む。
そのとき、母が台所に入ってきた。
「紬」
「うん」
紬は鞄から給料袋を出した。
母は何も言わず手を伸ばす。
紬はその手に袋を渡した。
母は中身を確認する。
紙幣を数える音がする。
「今月は少ないわね」
「残業少なかったから」
母は頷く。
「まあいいわ」
財布にお金を入れる。
「家の生活費」
それから、少し間を置いて言った。
「駿の学費」
紬は黙っていた。
母は振り返る。
「なに?」
「……ううん」
何も言わない。
居間から駿の声。
「おーい」
「なに」
「腹減った」
紬は鍋を火にかける。
野菜を切る音が静かに響く。
「姉ちゃん」
駿が台所の入り口に立っていた。
Tシャツの袖から、新しい腕時計が見える。
「それ」
紬が言う。
「時計?」
駿は腕を見た。
「ああ」
にやっと笑う。
「かっこいいだろ」
「新しいの?」
「昨日買った」
紬は手を止めた。
「お金……」
駿は肩をすくめる。
「母さんにもらった」
胸の奥が、少しだけ重くなる。
「姉ちゃん」
駿が冷蔵庫を開けながら言う。
「俺、来週バイク買うから」
紬は振り向く。
「バイク?」
「うん」
「お金は」
駿は笑う。
「あるに決まってんだろ」
「どこから」
駿は不思議そうに言う。
「家の金だよ」
紬は言葉を失った。
「駿」
「なに」
「大学……」
駿は面倒くさそうに言った。
「辞めた」
紬は息を止めた。
「つまんねーんだもん」
軽い声だった。
「別に働かなくても生きていけるし」
紬は鍋を見つめた。
湯気がゆっくり上がっている。
駿が言う。
「姉ちゃん」
「なに」
「そんな顔すんなよ」
冷蔵庫のジュースを飲みながら笑う。
「姉ちゃんが働けばいいじゃん」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
「姉ちゃんなんだから当然だろ」
紬は何も言えなかった。
鍋の中のスープが小さく揺れている。
木のスプーンで混ぜる。
台所の窓の外はもう暗かった。
夜の空気が静かに広がっている。
紬はふと、自分の手を見た。
油と水で荒れた指。
小さな傷。
工場の金属の匂いがまだ残っている。
その手で。
家族のご飯を作り。
家族の生活を支え。
自分の給料を渡している。
胸の奥で、何かが少しずつ削れていく。
駿がソファに戻る。
「飯まだ?」
「もうすぐ」
紬は鍋の火を止めた。
皿を並べる。
父が帰ってくる。
「腹減った」
母が笑う。
「紬が作ってるわよ」
父は頷く。
「紬はよく働くな」
駿が言う。
「ほんと便利」
母が言う。
「お姉ちゃんなんだから当然よ」
その言葉が、また静かに落ちた。
紬は皿を並べながら思う。
自分の未来は、どこへ行ったのだろう。
大学。
知らない町。
新しい世界。
それはもう、遠い夢のようだった。
ただ一つだけ分かることがある。
この家では。
紬の人生は。
少しずつ、静かに使われている。
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