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春の風はやわらかかった。
窓を少し開けると、外から桜の匂いがふわりと流れ込んでくる。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、街の空気はどこか軽かった。
紬は事務所の机に座り、書類を閉じた。
「……終わった」
小さくつぶやく。
紙を揃える音が静かな部屋に響いた。
そのとき、ドアがノックされる。
「失礼します」
若い女性が顔を出した。事務所の事務員だ。
「先生」
「どうしました?」
女性は少し困った顔をしている。
「面会の方が……」
紬は顔を上げた。
「予約ですか?」
「いえ、その……」
言いにくそうに言う。
「ご家族だと」
胸の奥がわずかに動く。
でも、紬の表情は変わらなかった。
「……そう」
窓の外を見る。
桜の花びらが一枚、風に乗って舞っている。
紬は椅子から立った。
「通してください」
応接室のドアを開ける。
そこにいたのは駿だった。
以前よりやつれていた。頬がこけ、髪も伸びている。服はよれよれで、靴も古い。
駿は椅子に座ったまま、紬を見上げた。
「……姉ちゃん」
その呼び方に、紬は少しだけ眉を動かす。
でも何も言わない。
テーブルを挟んで向かいに座る。
「こんにちは」
声は穏やかだった。
駿は視線を落とす。
指先が机を触る。
「久しぶり」
紬はうなずく。
「そうですね」
部屋の中はコーヒーの香りがしていた。さっき淹れたばかりの匂いだ。
駿が言う。
「元気そうだな」
「ええ」
紬は答える。
沈黙が落ちる。
外の車の音が遠くから聞こえる。
やがて駿が言った。
「……母さん」
紬は黙って聞く。
「病院」
その声は小さかった。
「入院してる」
紬の胸の奥で、わずかに何かが揺れる。
でも表情は変わらない。
駿は続ける。
「親父も……」
言葉が止まる。
「仕事なくなってさ」
紬は静かに聞いている。
駿が笑った。
乾いた笑いだった。
「家、なくなった」
競売。
その言葉が頭に浮かぶ。
紬は小さく息を吐く。
「そうですか」
駿が顔を上げる。
「冷たいな」
紬は首をかしげた。
「そうですか?」
駿は黙る。
そして言う。
「……助けてくれよ」
その言葉。
紬は駿を見る。
昔と同じ顔。
でも、もう違う。
紬はゆっくり言った。
「依頼ですか?」
駿は戸惑う。
「は?」
紬は机の上のペンを持つ。
「弁護士は依頼人の話を聞きます」
静かな声だった。
駿は言葉を失う。
「家族だから助けろ、という話なら」
紬は続ける。
「それはお断りします」
駿の肩が落ちる。
「……そうか」
少しの沈黙。
やがて駿が言う。
「姉ちゃん」
紬は訂正する。
「紬です」
駿は苦笑する。
「紬」
それが初めてだった。
名前を呼ばれたのは。
駿が言う。
「変わったな」
紬は小さく笑う。
「ええ」
窓の外を見る。
桜の花びらがまた一枚舞った。
紬はゆっくり言う。
「昔は」
指先でカップを触る。
温かい。
「ずっと思っていました」
駿が聞く。
「何を」
紬は答える。
「私の人生は、誰かのためのものだと」
駿は黙る。
紬は続ける。
「弟のため」
「家族のため」
「お姉ちゃんなんだから」
その言葉を口にしたとき、紬は少しだけ笑った。
「でも」
窓の外を見る。
青い空。
揺れる桜。
「違いました」
駿は聞く。
「何が」
紬はゆっくり言った。
「私は」
胸に手を当てる。
心臓の鼓動が静かに響いている。
「私のために生まれました」
駿は何も言えない。
紬は立ち上がる。
「依頼があるなら」
ドアを指す。
「受付で書類を書いてください」
駿は椅子から立つ。
しばらく立ち尽くす。
そして言う。
「……分かった」
ドアへ向かう。
出る前に振り返る。
「紬」
紬はうなずく。
駿は言った。
「……すごいな」
それだけだった。
ドアが閉まる。
静かな部屋。
紬は窓の前に立つ。
春の風がカーテンを揺らす。
桜の花びらが空を舞う。
紬は目を閉じる。
そして小さくつぶやく。
「やっと」
胸の奥に広がるのは、静かな自由だった。
春の風はやわらかかった。
窓を少し開けると、外から桜の匂いがふわりと流れ込んでくる。遠くで子どもたちの笑い声が聞こえ、街の空気はどこか軽かった。
紬は事務所の机に座り、書類を閉じた。
「……終わった」
小さくつぶやく。
紙を揃える音が静かな部屋に響いた。
そのとき、ドアがノックされる。
「失礼します」
若い女性が顔を出した。事務所の事務員だ。
「先生」
「どうしました?」
女性は少し困った顔をしている。
「面会の方が……」
紬は顔を上げた。
「予約ですか?」
「いえ、その……」
言いにくそうに言う。
「ご家族だと」
胸の奥がわずかに動く。
でも、紬の表情は変わらなかった。
「……そう」
窓の外を見る。
桜の花びらが一枚、風に乗って舞っている。
紬は椅子から立った。
「通してください」
応接室のドアを開ける。
そこにいたのは駿だった。
以前よりやつれていた。頬がこけ、髪も伸びている。服はよれよれで、靴も古い。
駿は椅子に座ったまま、紬を見上げた。
「……姉ちゃん」
その呼び方に、紬は少しだけ眉を動かす。
でも何も言わない。
テーブルを挟んで向かいに座る。
「こんにちは」
声は穏やかだった。
駿は視線を落とす。
指先が机を触る。
「久しぶり」
紬はうなずく。
「そうですね」
部屋の中はコーヒーの香りがしていた。さっき淹れたばかりの匂いだ。
駿が言う。
「元気そうだな」
「ええ」
紬は答える。
沈黙が落ちる。
外の車の音が遠くから聞こえる。
やがて駿が言った。
「……母さん」
紬は黙って聞く。
「病院」
その声は小さかった。
「入院してる」
紬の胸の奥で、わずかに何かが揺れる。
でも表情は変わらない。
駿は続ける。
「親父も……」
言葉が止まる。
「仕事なくなってさ」
紬は静かに聞いている。
駿が笑った。
乾いた笑いだった。
「家、なくなった」
競売。
その言葉が頭に浮かぶ。
紬は小さく息を吐く。
「そうですか」
駿が顔を上げる。
「冷たいな」
紬は首をかしげた。
「そうですか?」
駿は黙る。
そして言う。
「……助けてくれよ」
その言葉。
紬は駿を見る。
昔と同じ顔。
でも、もう違う。
紬はゆっくり言った。
「依頼ですか?」
駿は戸惑う。
「は?」
紬は机の上のペンを持つ。
「弁護士は依頼人の話を聞きます」
静かな声だった。
駿は言葉を失う。
「家族だから助けろ、という話なら」
紬は続ける。
「それはお断りします」
駿の肩が落ちる。
「……そうか」
少しの沈黙。
やがて駿が言う。
「姉ちゃん」
紬は訂正する。
「紬です」
駿は苦笑する。
「紬」
それが初めてだった。
名前を呼ばれたのは。
駿が言う。
「変わったな」
紬は小さく笑う。
「ええ」
窓の外を見る。
桜の花びらがまた一枚舞った。
紬はゆっくり言う。
「昔は」
指先でカップを触る。
温かい。
「ずっと思っていました」
駿が聞く。
「何を」
紬は答える。
「私の人生は、誰かのためのものだと」
駿は黙る。
紬は続ける。
「弟のため」
「家族のため」
「お姉ちゃんなんだから」
その言葉を口にしたとき、紬は少しだけ笑った。
「でも」
窓の外を見る。
青い空。
揺れる桜。
「違いました」
駿は聞く。
「何が」
紬はゆっくり言った。
「私は」
胸に手を当てる。
心臓の鼓動が静かに響いている。
「私のために生まれました」
駿は何も言えない。
紬は立ち上がる。
「依頼があるなら」
ドアを指す。
「受付で書類を書いてください」
駿は椅子から立つ。
しばらく立ち尽くす。
そして言う。
「……分かった」
ドアへ向かう。
出る前に振り返る。
「紬」
紬はうなずく。
駿は言った。
「……すごいな」
それだけだった。
ドアが閉まる。
静かな部屋。
紬は窓の前に立つ。
春の風がカーテンを揺らす。
桜の花びらが空を舞う。
紬は目を閉じる。
そして小さくつぶやく。
「やっと」
胸の奥に広がるのは、静かな自由だった。
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