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第10話 主役の奪還
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第10話 主役の奪還
玄関の引き戸を開けた瞬間、湿った空気が鼻を刺した。
久しぶりに踏み入れる家の匂い。油と煙草と、少し古い布の匂い。
何年も前に出ていった家なのに、その匂いだけは変わっていない。
「来たのね」
母が居間から顔を出した。
声は相変わらず甘い。
紬は靴を脱いだ。床板がわずかに軋む。昔から鳴る音だ。
居間に入ると、父と駿がテーブルの前に座っていた。
駿は足を組んでいる。昔より太り、頬が丸くなっていた。
「おう」
駿が言う。
「弁護士先生」
その言い方に、紬は少しだけ目を細めた。
テーブルの上には書類の束が置かれている。
その横に、空のビール缶。
父が咳払いをした。
「話は聞いた」
紬は椅子に座らない。立ったまま言う。
「用件は?」
母がため息をつく。
「冷たいわね」
そして言った。
「家族でしょ」
紬は何も答えない。
駿がテーブルを指で叩く。
「借金」
紬は視線を落とす。
書類の数字が目に入る。
三千万。
眉が少しだけ動いた。
駿が言う。
「まあ、色々あってさ」
軽い声だった。
「投資とか」
父が低い声で言う。
「紬」
紬は顔を上げる。
「お前、弁護士なんだろ」
「そう」
「なら解決できるな」
紬は少しだけ笑った。
「どういう意味?」
母が口を開く。
「決まってるでしょ」
紬を見る。
「払うのよ」
紬の耳に、その言葉が静かに落ちる。
駿が言う。
「姉ちゃん助けろよ」
父が腕を組む。
「育ててやった恩がある」
母が続ける。
「あなたが小さい頃、誰が面倒見たと思ってるの」
その言葉。
何度も聞いた言葉。
胸の奥で、古い記憶が動く。
台所。
冷えた残り物。
床に落ちたソース。
「お姉ちゃんなんだから」
その声。
紬はゆっくり息を吸った。
「……なるほど」
テーブルの向こうで駿が笑う。
「話早いじゃん」
母も笑う。
「さすが紬」
紬は鞄を開いた。
革の鞄。
中から分厚い封筒を取り出す。
テーブルの上に置いた。
紙の擦れる音。
父が眉をひそめる。
「なんだそれ」
紬は言う。
「書類」
母が封筒を開く。
中身を取り出す。
ページをめくる。
次第に母の顔が固まる。
「……なにこれ」
紬は静かに答える。
「保証契約無効確認」
父が言う。
「は?」
紬は続ける。
「それから」
もう一枚の書類を指差す。
「不当利得返還請求」
母の手が震える。
「……どういうこと」
紬は言う。
「あなたたちが今まで私から取ったお金」
駿が笑う。
「は?」
紬は続ける。
「給料」
「借金返済」
「生活費」
一つずつ言う。
「すべて記録してあります」
駿が立ち上がる。
「ふざけんな!」
紬は駿を見る。
「さらに」
もう一枚の書類。
「慰謝料請求」
父の顔が赤くなる。
「紬!」
紬の声は静かだった。
「合計」
紙をめくる。
「四千八百二十万円」
居間が静まり返る。
駿が叫ぶ。
「おい!」
紬を指差す。
「姉ちゃん助けろよ!」
紬は答えた。
「弁護士は」
少しだけ間を置く。
「依頼人しか助けません」
駿がテーブルを叩く。
「俺は弟だぞ!」
紬は言った。
「違う」
母が震える声で言う。
「紬……」
紬は母を見る。
「私は」
ゆっくり言う。
「弟を助けるために生まれたんじゃない」
その言葉は静かだった。
でも揺れない。
紬は続ける。
「私は」
胸の奥から言葉を出す。
「私のために生まれた」
父が怒鳴る。
「親を訴えるのか!」
紬はうなずいた。
「はい」
母の顔が青くなる。
紬は最後の書類を出した。
「これは」
テーブルの上に置く。
「訴状」
駿が後ずさる。
「冗談だろ」
紬は言う。
「今日から」
少しだけ笑う。
「私はあなたたちの娘でも姉でもない」
母が震える。
「じゃあ何なの」
紬は答えた。
「債権者」
その言葉が部屋に落ちた。
外で風が吹く。
窓ガラスが小さく鳴る。
紬は鞄を閉じた。
そして振り返る。
玄関へ向かう。
父が後ろで叫ぶ。
「紬!」
でも紬は止まらない。
玄関のドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
夜の風。
静かな街。
紬は一歩外へ出る。
胸の奥に、今まで感じたことのない軽さがあった。
長い鎖が。
ようやく。
切れた。
玄関の引き戸を開けた瞬間、湿った空気が鼻を刺した。
久しぶりに踏み入れる家の匂い。油と煙草と、少し古い布の匂い。
何年も前に出ていった家なのに、その匂いだけは変わっていない。
「来たのね」
母が居間から顔を出した。
声は相変わらず甘い。
紬は靴を脱いだ。床板がわずかに軋む。昔から鳴る音だ。
居間に入ると、父と駿がテーブルの前に座っていた。
駿は足を組んでいる。昔より太り、頬が丸くなっていた。
「おう」
駿が言う。
「弁護士先生」
その言い方に、紬は少しだけ目を細めた。
テーブルの上には書類の束が置かれている。
その横に、空のビール缶。
父が咳払いをした。
「話は聞いた」
紬は椅子に座らない。立ったまま言う。
「用件は?」
母がため息をつく。
「冷たいわね」
そして言った。
「家族でしょ」
紬は何も答えない。
駿がテーブルを指で叩く。
「借金」
紬は視線を落とす。
書類の数字が目に入る。
三千万。
眉が少しだけ動いた。
駿が言う。
「まあ、色々あってさ」
軽い声だった。
「投資とか」
父が低い声で言う。
「紬」
紬は顔を上げる。
「お前、弁護士なんだろ」
「そう」
「なら解決できるな」
紬は少しだけ笑った。
「どういう意味?」
母が口を開く。
「決まってるでしょ」
紬を見る。
「払うのよ」
紬の耳に、その言葉が静かに落ちる。
駿が言う。
「姉ちゃん助けろよ」
父が腕を組む。
「育ててやった恩がある」
母が続ける。
「あなたが小さい頃、誰が面倒見たと思ってるの」
その言葉。
何度も聞いた言葉。
胸の奥で、古い記憶が動く。
台所。
冷えた残り物。
床に落ちたソース。
「お姉ちゃんなんだから」
その声。
紬はゆっくり息を吸った。
「……なるほど」
テーブルの向こうで駿が笑う。
「話早いじゃん」
母も笑う。
「さすが紬」
紬は鞄を開いた。
革の鞄。
中から分厚い封筒を取り出す。
テーブルの上に置いた。
紙の擦れる音。
父が眉をひそめる。
「なんだそれ」
紬は言う。
「書類」
母が封筒を開く。
中身を取り出す。
ページをめくる。
次第に母の顔が固まる。
「……なにこれ」
紬は静かに答える。
「保証契約無効確認」
父が言う。
「は?」
紬は続ける。
「それから」
もう一枚の書類を指差す。
「不当利得返還請求」
母の手が震える。
「……どういうこと」
紬は言う。
「あなたたちが今まで私から取ったお金」
駿が笑う。
「は?」
紬は続ける。
「給料」
「借金返済」
「生活費」
一つずつ言う。
「すべて記録してあります」
駿が立ち上がる。
「ふざけんな!」
紬は駿を見る。
「さらに」
もう一枚の書類。
「慰謝料請求」
父の顔が赤くなる。
「紬!」
紬の声は静かだった。
「合計」
紙をめくる。
「四千八百二十万円」
居間が静まり返る。
駿が叫ぶ。
「おい!」
紬を指差す。
「姉ちゃん助けろよ!」
紬は答えた。
「弁護士は」
少しだけ間を置く。
「依頼人しか助けません」
駿がテーブルを叩く。
「俺は弟だぞ!」
紬は言った。
「違う」
母が震える声で言う。
「紬……」
紬は母を見る。
「私は」
ゆっくり言う。
「弟を助けるために生まれたんじゃない」
その言葉は静かだった。
でも揺れない。
紬は続ける。
「私は」
胸の奥から言葉を出す。
「私のために生まれた」
父が怒鳴る。
「親を訴えるのか!」
紬はうなずいた。
「はい」
母の顔が青くなる。
紬は最後の書類を出した。
「これは」
テーブルの上に置く。
「訴状」
駿が後ずさる。
「冗談だろ」
紬は言う。
「今日から」
少しだけ笑う。
「私はあなたたちの娘でも姉でもない」
母が震える。
「じゃあ何なの」
紬は答えた。
「債権者」
その言葉が部屋に落ちた。
外で風が吹く。
窓ガラスが小さく鳴る。
紬は鞄を閉じた。
そして振り返る。
玄関へ向かう。
父が後ろで叫ぶ。
「紬!」
でも紬は止まらない。
玄関のドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
夜の風。
静かな街。
紬は一歩外へ出る。
胸の奥に、今まで感じたことのない軽さがあった。
長い鎖が。
ようやく。
切れた。
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