『長女だからと介護を押し付けられ会社を辞めた私、父の葬式の翌日に追い出されたので――特約付き贈与契約と不当利得返還請求で兄夫婦を破産させます

かおるこ

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第7話 弁護士来訪

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第7話 弁護士来訪

 昼の空気は、妙に乾いていた。

 冬の終わりの光が、住宅街の屋根を白く照らしている。風は冷たいが、空はよく晴れていた。

 美月はゆっくり歩いていた。

 その足取りは、三日前とはまるで違う。

 あの夜。

 雨の中で家を追い出された夜とは。

 コートのポケットの中で、指先が一枚の紙の感触を確かめる。

 硬い封筒。

 中には、契約書。

 隣を歩く男が言った。

「緊張しているか?」

 低く落ち着いた声。

 黒崎だった。

 濃いグレーのスーツに黒いコート。背筋は真っ直ぐで、歩く足音が静かだ。

「……少し」

 美月は答える。

「当然だ」

 黒崎は短く言う。

「だが問題ない」

「本当に?」

 黒崎は歩きながらわずかに笑った。

「契約書は嘘をつかない」

 その言葉は、冷たく、しかし確かな重みがあった。

 美月は家を見上げる。

 見慣れた屋根。

 玄関の白いドア。

 三年間暮らしていた家。

 胸の奥で、何かが静かに揺れる。

「行くか」

 黒崎が言う。

「……はい」

 美月は玄関のチャイムを押した。

 ピンポーン。

 家の中で、電子音が響く。

 数秒。

 足音が近づく。

 鍵の音。

 扉が開く。

 出てきたのは、由香だった。

「……は?」

 由香の眉が、露骨に上がる。

「なんでいるの?」

 美月は静かに言った。

「話がある」

 由香は腕を組む。

「何の?」

「兄さんは?」

 由香は鼻で笑った。

「仕事」

 そのとき。

 家の奥から声がした。

「誰だ?」

 健一だった。

 廊下を歩いてくる足音。

 そして玄関に現れる。

 兄は美月を見ると、顔をしかめた。

「……なんだよ」

「話がある」

「今さら?」

 健一は笑う。

「荷物でも忘れたか?」

 美月は首を振った。

「違う」

 健一は黒崎を見る。

「誰だよ、この人」

 黒崎が一歩前に出た。

「黒崎と申します」

 名刺を差し出す。

 健一はそれを受け取り、目を細めた。

「弁護士?」

 由香が声を上げる。

「は?」

 健一が苛立った声を出す。

「なんだよそれ」

 美月は静かに言った。

「家の件で来た」

 健一は顔をしかめる。

「家?」

「そう」

 健一は吐き捨てるように言う。

> 「遺言があるんだぞ!」

 声が玄関に響く。

「父さんの遺言!」

「全部俺のものだ!」

 黒崎はまったく動じない。

「ええ」

 静かな声だった。

「存じています」

 健一は苛立つ。

「だったら何しに来たんだよ!」

 美月が言った。

> 「ええ、知っています」

 健一は一瞬言葉を失う。

「……は?」

 美月はコートのポケットから封筒を取り出した。

 紙の擦れる音が、静かな玄関に響く。

 封筒を開く。

 中から一枚の書類を出す。

「これを見てほしい」

 健一が奪うように受け取る。

「なんだよ」

 紙を広げる。

 数秒。

 兄の顔が、ゆっくり変わる。

「……なんだこれ」

 由香が覗き込む。

「なに?」

 健一は読み上げる。

「贈与契約?」

 黒崎が言う。

「正確には」

「負担付贈与契約です」

 健一は眉をひそめる。

「なんだそれ」

 黒崎の声は淡々としていた。

「介護を条件とした贈与契約です」

 玄関の空気が、少し冷える。

「お父さまは生前」

 黒崎が続ける。

「依頼人に対し」

「実家土地の持分を贈与する契約を結んでいます」

 健一が声を荒げる。

「そんな話聞いてない!」

「でしょうね」

 黒崎は平然と言う。

「契約当事者ではありませんから」

 由香が言う。

「ちょっと待って」

「そんなの無効でしょ!」

 黒崎はゆっくり首を振る。

「残念ながら」

「公正証書です」

 その言葉が落ちた。

 健一の顔が固まる。

「……公正?」

「はい」

 黒崎は言う。

「公証役場で作成された正式な契約です」

 健一の手が震える。

「ふざけんな」

 紙を握りしめる。

「父さんがそんなことするわけない!」

 そのとき。

 美月が静かに言った。

「父さんが頼んだ」

 健一が振り向く。

「……は?」

「三年前」

 美月は続ける。

「父さんが言った」

 声は静かだった。

「この家は、お前が守ってくれって」

 健一の目が細くなる。

「そんな話」

「聞いてない」

「そうだろうね」

 美月は言う。

「来なかったから」

 沈黙が落ちた。

 風が玄関の隙間から入り、紙をわずかに揺らす。

 由香が声を震わせる。

「でも遺言は!」

「遺言は健一くんでしょ!」

 黒崎が答えた。

「ええ」

「遺言は有効です」

 健一が笑う。

「ほら見ろ!」

 黒崎は続けた。

「ただし」

 その声は低かった。

「契約はそれより前に成立しています」

 健一の笑いが止まる。

「つまり」

 黒崎はゆっくり言う。

「この家の権利の一部は」

「すでに依頼人のものです」

 玄関の空気が、凍った。

 由香がつぶやく。

「……嘘」

 健一が叫ぶ。

「ふざけんな!」

 黒崎は冷静だった。

「さらに」

 その一言で、空気がまた変わる。

「まだ話があります」

 美月は兄を見る。

 その目は、もう三日前の目ではなかった。

「これだけじゃない」

 健一の顔が歪む。

「……何だよ」

 美月は静かに言った。

「これから話す」

 その声は、雨の夜よりもずっと冷たかった。

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