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エピローグ 春の朝
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エピローグ 春の朝
朝の光は、思っていたより柔らかかった。
カーテンの隙間から、細い光が部屋の床に落ちている。木のフローリングの上で、光はゆっくりと形を変えていた。
目を開ける。
静かだった。
あの家の朝とは違う。
夜中に呼ばれることもない。廊下の軋む音も、父の苦しそうな呼吸も聞こえない。
ただ、遠くで鳥が鳴いている。
それだけだった。
美月はゆっくり体を起こす。
「……朝か」
自分の声が、少しだけ部屋に響いた。
キッチンへ向かう。
床の冷たい感触が足の裏に伝わる。
コーヒーメーカーのスイッチを押すと、小さく機械音が鳴り始めた。
コポコポ、とお湯が落ちる音。
コーヒーの香ばしい匂いが、部屋に広がる。
その匂いを吸い込みながら、美月は窓を開けた。
春の空気が入ってくる。
少し冷たい風。
遠くの車の音。
街がゆっくり目を覚ましている。
「いい匂いだな」
背後から声がした。
振り向くと、玄関のほうから黒崎が入ってきた。
スーツ姿のまま、コートを脱いでいる。
「先生」
「朝早いな」
「鍵返しに来ただけだ」
黒崎は軽く笑った。
美月がコーヒーを二つ用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
湯気がふわりと上がる。
黒崎は一口飲んだ。
「うまい」
「本当ですか?」
「本当だ」
黒崎は窓の外を見た。
「静かだな」
「はい」
美月も外を見る。
桜が風に揺れている。
春の匂い。
穏やかな朝。
「……終わりましたね」
美月が言う。
黒崎はうなずいた。
「終わった」
その言葉は短かった。
でも重みがあった。
黒崎がテーブルに封筒を置く。
「これ」
「何ですか?」
「裁判の最終書類」
封筒を開ける。
中には登記の写し。
土地の売却書類。
すべて終わった証拠。
美月はそれを静かに見た。
黒崎が言う。
「もう完全に終わりだ」
「兄夫婦は?」
美月が聞く。
黒崎は肩をすくめる。
「支払い不能」
「返還義務は残るが」
「しばらくは払えないだろうな」
窓の外で風が吹く。
桜の花びらが一枚舞った。
「……そうですか」
美月は静かに言った。
黒崎がちらりと見る。
「気になるか?」
美月は少し考える。
そして首を振った。
「いいえ」
本当だった。
もう、怒りも憎しみもなかった。
黒崎が言う。
「そういえば」
「何です?」
「ニュース見たか」
「ニュース?」
黒崎がスマートフォンを出す。
画面を見せる。
そこには記事が表示されていた。
**「介護を妹に押し付けた兄夫婦、裁判敗訴」**
さらにその下。
由香のSNS投稿のスクリーンショット。
**#介護は長女担当**
コメントが並んでいる。
「最低」
「信じられない」
「これは炎上する」
美月はしばらく画面を見ていた。
それから小さく息を吐く。
「……広がりましたね」
「まあな」
黒崎が言う。
「自業自得だ」
部屋の中に、コーヒーの香りが残っている。
窓から入る風が、カーテンをゆっくり揺らした。
黒崎がカップを置く。
「ところで」
「はい?」
「これからどうする」
美月は少し考えた。
窓の外を見る。
青い空。
揺れる桜。
遠くの街。
「……仕事」
「仕事?」
「また探します」
黒崎が言う。
「法律事務所か?」
美月は笑う。
「できれば」
「戻りたいです」
黒崎は少し黙った。
それから言った。
「だったら」
「うちに来い」
美月が驚く。
「え?」
「事務員が一人辞めた」
「人手が足りない」
黒崎はコーヒーを飲みながら言う。
「経験者なら助かる」
美月は少し黙った。
胸の奥で、何かが静かに動く。
「……いいんですか?」
「もちろんだ」
黒崎は言った。
「ただし」
「はい?」
「今度は」
一瞬だけ間を置く。
「無理するな」
その言葉は、静かだった。
でも温かかった。
美月は窓の外を見た。
春の光。
新しい朝。
そして、ゆっくりうなずく。
「……はい」
遠くで電車の音がした。
街が動き始める音。
新しい一日。
美月はカップを持ち上げる。
コーヒーの温かさが、指先に広がった。
胸の奥で、何かが確かに変わっている。
もう。
もう二度と。
誰かの人生を背負って生きる必要はない。
これは。
ようやく始まった。
**自分の人生だった。**
朝の光は、思っていたより柔らかかった。
カーテンの隙間から、細い光が部屋の床に落ちている。木のフローリングの上で、光はゆっくりと形を変えていた。
目を開ける。
静かだった。
あの家の朝とは違う。
夜中に呼ばれることもない。廊下の軋む音も、父の苦しそうな呼吸も聞こえない。
ただ、遠くで鳥が鳴いている。
それだけだった。
美月はゆっくり体を起こす。
「……朝か」
自分の声が、少しだけ部屋に響いた。
キッチンへ向かう。
床の冷たい感触が足の裏に伝わる。
コーヒーメーカーのスイッチを押すと、小さく機械音が鳴り始めた。
コポコポ、とお湯が落ちる音。
コーヒーの香ばしい匂いが、部屋に広がる。
その匂いを吸い込みながら、美月は窓を開けた。
春の空気が入ってくる。
少し冷たい風。
遠くの車の音。
街がゆっくり目を覚ましている。
「いい匂いだな」
背後から声がした。
振り向くと、玄関のほうから黒崎が入ってきた。
スーツ姿のまま、コートを脱いでいる。
「先生」
「朝早いな」
「鍵返しに来ただけだ」
黒崎は軽く笑った。
美月がコーヒーを二つ用意する。
「どうぞ」
「ありがとう」
湯気がふわりと上がる。
黒崎は一口飲んだ。
「うまい」
「本当ですか?」
「本当だ」
黒崎は窓の外を見た。
「静かだな」
「はい」
美月も外を見る。
桜が風に揺れている。
春の匂い。
穏やかな朝。
「……終わりましたね」
美月が言う。
黒崎はうなずいた。
「終わった」
その言葉は短かった。
でも重みがあった。
黒崎がテーブルに封筒を置く。
「これ」
「何ですか?」
「裁判の最終書類」
封筒を開ける。
中には登記の写し。
土地の売却書類。
すべて終わった証拠。
美月はそれを静かに見た。
黒崎が言う。
「もう完全に終わりだ」
「兄夫婦は?」
美月が聞く。
黒崎は肩をすくめる。
「支払い不能」
「返還義務は残るが」
「しばらくは払えないだろうな」
窓の外で風が吹く。
桜の花びらが一枚舞った。
「……そうですか」
美月は静かに言った。
黒崎がちらりと見る。
「気になるか?」
美月は少し考える。
そして首を振った。
「いいえ」
本当だった。
もう、怒りも憎しみもなかった。
黒崎が言う。
「そういえば」
「何です?」
「ニュース見たか」
「ニュース?」
黒崎がスマートフォンを出す。
画面を見せる。
そこには記事が表示されていた。
**「介護を妹に押し付けた兄夫婦、裁判敗訴」**
さらにその下。
由香のSNS投稿のスクリーンショット。
**#介護は長女担当**
コメントが並んでいる。
「最低」
「信じられない」
「これは炎上する」
美月はしばらく画面を見ていた。
それから小さく息を吐く。
「……広がりましたね」
「まあな」
黒崎が言う。
「自業自得だ」
部屋の中に、コーヒーの香りが残っている。
窓から入る風が、カーテンをゆっくり揺らした。
黒崎がカップを置く。
「ところで」
「はい?」
「これからどうする」
美月は少し考えた。
窓の外を見る。
青い空。
揺れる桜。
遠くの街。
「……仕事」
「仕事?」
「また探します」
黒崎が言う。
「法律事務所か?」
美月は笑う。
「できれば」
「戻りたいです」
黒崎は少し黙った。
それから言った。
「だったら」
「うちに来い」
美月が驚く。
「え?」
「事務員が一人辞めた」
「人手が足りない」
黒崎はコーヒーを飲みながら言う。
「経験者なら助かる」
美月は少し黙った。
胸の奥で、何かが静かに動く。
「……いいんですか?」
「もちろんだ」
黒崎は言った。
「ただし」
「はい?」
「今度は」
一瞬だけ間を置く。
「無理するな」
その言葉は、静かだった。
でも温かかった。
美月は窓の外を見た。
春の光。
新しい朝。
そして、ゆっくりうなずく。
「……はい」
遠くで電車の音がした。
街が動き始める音。
新しい一日。
美月はカップを持ち上げる。
コーヒーの温かさが、指先に広がった。
胸の奥で、何かが確かに変わっている。
もう。
もう二度と。
誰かの人生を背負って生きる必要はない。
これは。
ようやく始まった。
**自分の人生だった。**
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