透明な台所と、凪の海

かおるこ

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1. 檻のない監禁

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 1. 檻のない監禁

 お母さんの笑い声が、聞こえた気がした。
 深夜、換気口から漏れる風の音が、ふいに母の甲高い、けれどどこか乾いた哄笑に化けて耳の奥を撫でる。
「……っ」
 私は反射的に肩を竦め、開いていた文庫本を強く握りしめた。指先が白く強張り、紙の端がくしゃりと嫌な音を立てる。
 あの日読んだ小説の少女、春海は、二千日の監禁の果てに救い出された。彼女の首には本物の首輪があり、その喉元にはタグが揺れ、踏みつけてくる「母の足」の重みが、確かに彼女の存在を定義していた。

 本を閉じ、私は真っ暗な部屋で一人、自分の首筋に触れてみる。
 指先が探るのは、拘束の痕跡だ。けれど、そこには痣ひとつない。真鍮の冷たさも、皮脂に汚れた革の感触もない。ただ、気味が悪いほどに滑らかで、熱を持たない皮膚が続いているだけだった。

「春海さんは、いいな」

 独り言が、冷えた空気の中にぽつんと落ちた。その声は、自分でも驚くほど湿って、泥のような羨望を孕んでいた。
 暗闇の中で、主治医の顔が浮かぶ。白衣の擦れる乾いた音、消毒液の鼻を突く匂い。彼はカルテに万年筆を走らせながら、淡々と私に告げたのだ。
『君の苦しみは、愛着障害というものだ。対象が存在しない、あるいは機能していなかったことによる欠落だよ』
 記号のような病名。機能不全。欠落。
 そんな言葉で片付けないでほしかった。私はただ、あの春海のように、首を絞められるほどの「重み」が欲しかっただけなのだ。

 目を閉じると、記憶の底にある実家の匂いが蘇る。
 それは、常に湿った土の匂いと、魚の生臭さ、そして強い洗剤の香りが混ざり合った、逃げ場のない匂いだった。
 昼間、母は百姓として田畑に立ち、泥にまみれていた。夜になると、その手で小さな小料理屋の板場に立った。母の人生には、私を抱きしめるための余白なんて一ミリもなかった。

「お母さん、あのね」
 幼い私が勇気を出して、母の背中に声をかけたことがあった。
 母は振り返りもしなかった。ただ、まな板の上でフグの腹を裂く包丁の音だけが、トントンと小気味よく、けれど拒絶するように響いていた。
「入っちゃいけん。ここには毒があるけぇ」
 低い、感情を削ぎ落とした声。
 それは私を案じる言葉ではなく、ただ自分の領域を侵させないための警告だった。
 母の指先が、神経を研ぎ澄ませてフグの猛毒を取り除いていく。その鮮やかな手つきを見るたび、私は思ったものだ。
 お母さんのあの指が、もし私の頬に触れたら。たとえそれが毒を孕んだ手であっても、私はそれを受け入れただろう。爪が剥がれるまで掻きむしりたくなるような、痛烈な執着が欲しかった。

 実家には、八人の小姑と、耳の遠い義母がいた。
 女たちの声は、常に家の中を嵐のように吹き荒れていた。
「あんた、まだそんなことも出来んの」
「兄さんの稼ぎを無駄にしてからに」
 理不尽な罵声を浴びながら、母はただ黙って「はらたぎっくめ」に働き続けた。彼女の表情は、いつしか感情を凍らせた石像のようになっていた。
 母は、家族という名の怪物に、自分の心をごりごりと削って差し出していた。
 そうして削りきった後に残ったかすかな灰を、私は一生懸命にかき集めて「愛」だと呼びたかった。けれど、母が私に与えたのは、完璧に整えられた食事と、清潔な衣服、そして「無関心」という名の檻だった。

「……ポチ、か」

 春海の物語の中で、彼女が「私はポチなの」と叫んだシーンが脳裏に焼き付いている。
 彼女には名前があった。ポチという、歪んではいても、母から与えられた特別な刻印があった。
 私には、何もない。
 学校では「手のかからない良い子」として、透明人間のように過ごした。
 家では、母の視界の端に映り込まないよう、息を殺して過ごした。
 誰にも迷惑をかけず、誰の心も乱さず、私はただ存在していた。

 もしもあの日、お母さんが私の首を絞めてくれたなら。
 もしもあの日、お母さんが私を部屋に閉じ込めて、「外は危険よ」と狂おしく囁いてくれたなら。
 私は今、こんなにも自分が空っぽだと感じずに済んだのだろうか。
 痛みは、存在の証明だ。
 けれど私の過去には、痛みさえ落ちていない。ただ、凪いだ海のような、しんと冷たい静寂が横たわっているだけだ。

 深夜の部屋で、私はもう一度自分の喉に指を立てる。
 少し強く、皮膚が赤くなるくらいに。
 かすかな痛みが走る。けれど、それは母の手によるものではない。
 私の指は、母の感触を覚えていない。
 母が握っていたのは、百姓の鍬であり、フグを捌く包丁であり、小姑たちに差し出す茶碗だった。私の柔らかな喉元を、彼女が探り当てたことは一度もなかった。

 三日後のカレンダーを見やる。
『十四時~ 田向』
 かつての母の店を、そして母自身をよく知る男。
 彼に会えば、私は何かを見つけられるのだろうか。
 母が私に向けなかった言葉の断片を。あるいは、私を透明な檻に閉じ込めた理由を。

「お母さん、今夜は美味しいものくれるといいなぁ」

 春海が夢の中で呟いた言葉が、私の心の中でエコーする。
 私が欲しかったのは、豪華な食事でも、優しい言葉でもなかった。
 たとえそれが、ラップに包まれたカピカピのご飯であっても、そこに「お母さんが、私に与えた」という意志の匂いが欲しかった。
 
 喉の奥が熱くなる。
 涙はこぼれない。私の涙腺は、幼い頃に母の背中を見つめ続けているうちに、すっかり干からびてしまったのだ。
 電気を消し、ベッドに潜り込む。
 毛布の重みが、かろうじて私の身体の境界線を教えてくれる。
 暗闇の中で耳を澄ますと、また換気口が母の笑い声のように鳴った。
 私はその音に、あえて名前を付けてみる。

「おかえりなさい、お母さん」

 それは、私の妄想が生み出した、偽物の首輪だ。
 偽物でもいい。この暗闇の中で、私を縛るものが何もなければ、私はそのまま空気の中に溶けて消えてしまいそうだから。
 檻のない監禁。
 それは、誰にも見つからない、世界で一番深い孤独の場所。
 私はそこから抜け出す術を知らないまま、明日もまた、透明な顔をして朝を迎える。

 春海さん、あなたの首にある痣が、私には何よりも美しい宝石に見えるのよ。

 そう心の中で毒づきながら、私は深い、音のない眠りへと沈んでいった。

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