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2. フグと聖域の境界線
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2. フグと聖域の境界線
板場から響く、規則正しい音。
トントン、トントン、トントン。
それは心臓の鼓動というにはあまりに硬く、鋭利な音だった。
私は、築四十年を越える木造家屋の、冷え切った廊下に座り込んでいる。足の裏から伝わる板張りの冷たさは、まるで母の心の温度をそのまま映し出しているようだった。
「お母さん」
声を出すと、自分の喉がカラカラに乾いていることに気づく。板場の入り口。そこから先は、私にとってこの世で最も遠い、不可侵の異界だった。
「入っちゃいけん。そこでお待ちなさい。……毒があるけぇ」
母は振り返りもしない。白地の割烹着の背中が、調理場の裸電球に照らされて、ぼうっと白く浮かび上がっている。
昼間の母は、泥にまみれた百姓だった。腰まで浸かる田んぼの中で、日差しに焼かれながら鍬を振るう。その時の母の手は、節くれ立ち、爪の間には消えない土の色が染み付いていた。
けれど、夜、小料理屋の板場に立つ母の指先は、魔法のように白く研ぎ澄まされる。
まな板の上には、ふっくらと腹を膨らませたフグが横たわっていた。
「……毒って、そんなに怖いの?」
「ああ。一滴でも、この包丁の先に残っとるだけで、人は死ぬんよ。息ができんなって、身体が動かんくなって、声も出んまま、終わりよ」
母の言葉は、娘を案じる優しさというよりは、死の境界線を引くための冷徹な宣告だった。
母の手が動く。迷いなく、フグの滑らかな皮に刃が吸い込まれていく。
シュッ、という微かな肉の裂ける音。
母の指先は、猛毒を孕んだ内臓を、まるで割れ物を扱うように慎重に、けれど一分の狂いもなく取り除いていく。その集中力は、私という存在を完全に視界から消し去っていた。
「綺麗だね。……お花みたい」
母が皿の上に並べていく薄造りは、大輪の菊の花のようだった。皿の絵柄が透けて見えるほどに薄く、儚く、そして冷徹。
私はその背中を見つめながら、どうしようもない嫉妬を感じていた。
お母さんのあの指が、もし私の頬に触れたら。
お母さんのあの真剣な眼差しが、もし私の方を向いたら。
けれど、母が全神経を注ぐのは、死と隣り合わせの魚の身だけだった。
「お母さん、宿題で、花丸もらったよ」
少しでも気を引きたくて、私はランドセルからノートを取り出そうとした。
しかし、その瞬間、奥の座敷からけたたましい笑い声が響いた。父の八人の妹――小姑たちが、酒を飲みながら母を呼びつける声だ。
「お義姉さん! まだなの? こっちは喉が渇いとるんよ!」
「兄さんの稼ぎで食わせてもらっとるんじゃから、もっとキビキビ動きんさいや!」
母の肩が、微かに、けれど激しく震えた。
包丁を握る母の手が、一瞬だけ止まる。母は深く息を吐き出し、鏡のように磨かれた包丁の側面に、自分の顔を映した。そこに映っているのは、疲弊しきった一人の女の、魂の抜け殻のような形相だった。
私は駆け寄って、その割烹着の裾を掴みたかった。
「お母さん、行かなくていいよ。あんな人たちの言うこと、聞かなくていいよ」
けれど、言葉は喉の奥で氷の塊になって固まった。
母は、私の存在など忘れたかのように、再び包丁を動かし始めた。
トントン。トントン。
それは、彼女が「自分」を繋ぎ止めるための、命の刻み音だったのかもしれない。
「……あんたは、あっちへ行っとき。おばさんたちに見つかったら、また何を言われるかわからん。私は、ここにおらんと、この家は回らんのんよ」
母の声は、もはや私を見ていなかった。
彼女が守ろうとしていたのは、私という娘ではなく、「嫁」としての自分の聖域であり、同時に自らを縛り上げる呪縛の檻だった。
板場に充満する、張り詰めた空気。
私は廊下の冷たい板張りに座り込み、膝を抱えた。
板場と廊下を隔てる一本の溝。それが、私と母の間の、一生渡ることのできない深い海に見えた。
「お母さん」
「なんね、忙しい言うたろう」
「……お腹、すいた」
母は忌々しそうに、けれど機械的な手つきで、余ったご飯を小さな茶碗に盛った。そして、まな板の隅にあった塩の壺から、指先で一掴みの塩をパラパラと振りかける。
「これでも食べんさい。塩ご飯よ。今の私には、これくらいしかしてあげられん」
差し出された茶碗。
母の指が、一瞬だけ、私の指先に触れた。
それは、昼間の泥の熱を帯びているようでいて、芯まで冷え切った、死人のような指先だった。
私はその茶碗を抱えるようにして、自分の部屋へ戻った。
暗い部屋で食べる塩ご飯。
口の中に入れると、塩辛さが舌を刺し、続いて米の甘みがじわりと広がる。
それは、母が私に残してくれる、最後の「愛の出涸らし」のような味がした。
母の全エネルギーは、猛毒を捌くことと、小姑たちの波風を鎮めることに使い果たされていた。
私に残されたのは、塩一振りの無機質な情。
廊下からは、まだ包丁の音が聞こえてくる。
トントン、トントン。
私は耳を塞ぎ、布団に潜り込んだ。
春海という少女は、母に踏まれ、首を絞められ、痛みに泣いた。
私は、その痛みが欲しかった。
「入っちゃいけん」という拒絶ではなく、「ここにおりなさい」という束縛を。
透明な檻の中で、私は母の背中を焼き付け続けていた。
板場の明かりが消え、母が戦士の鎧を脱ぎ捨てて、ただの静かな抜け殻に戻るまで。
私は、その境界線で立ち尽くしていたのだ。
板場から響く、規則正しい音。
トントン、トントン、トントン。
それは心臓の鼓動というにはあまりに硬く、鋭利な音だった。
私は、築四十年を越える木造家屋の、冷え切った廊下に座り込んでいる。足の裏から伝わる板張りの冷たさは、まるで母の心の温度をそのまま映し出しているようだった。
「お母さん」
声を出すと、自分の喉がカラカラに乾いていることに気づく。板場の入り口。そこから先は、私にとってこの世で最も遠い、不可侵の異界だった。
「入っちゃいけん。そこでお待ちなさい。……毒があるけぇ」
母は振り返りもしない。白地の割烹着の背中が、調理場の裸電球に照らされて、ぼうっと白く浮かび上がっている。
昼間の母は、泥にまみれた百姓だった。腰まで浸かる田んぼの中で、日差しに焼かれながら鍬を振るう。その時の母の手は、節くれ立ち、爪の間には消えない土の色が染み付いていた。
けれど、夜、小料理屋の板場に立つ母の指先は、魔法のように白く研ぎ澄まされる。
まな板の上には、ふっくらと腹を膨らませたフグが横たわっていた。
「……毒って、そんなに怖いの?」
「ああ。一滴でも、この包丁の先に残っとるだけで、人は死ぬんよ。息ができんなって、身体が動かんくなって、声も出んまま、終わりよ」
母の言葉は、娘を案じる優しさというよりは、死の境界線を引くための冷徹な宣告だった。
母の手が動く。迷いなく、フグの滑らかな皮に刃が吸い込まれていく。
シュッ、という微かな肉の裂ける音。
母の指先は、猛毒を孕んだ内臓を、まるで割れ物を扱うように慎重に、けれど一分の狂いもなく取り除いていく。その集中力は、私という存在を完全に視界から消し去っていた。
「綺麗だね。……お花みたい」
母が皿の上に並べていく薄造りは、大輪の菊の花のようだった。皿の絵柄が透けて見えるほどに薄く、儚く、そして冷徹。
私はその背中を見つめながら、どうしようもない嫉妬を感じていた。
お母さんのあの指が、もし私の頬に触れたら。
お母さんのあの真剣な眼差しが、もし私の方を向いたら。
けれど、母が全神経を注ぐのは、死と隣り合わせの魚の身だけだった。
「お母さん、宿題で、花丸もらったよ」
少しでも気を引きたくて、私はランドセルからノートを取り出そうとした。
しかし、その瞬間、奥の座敷からけたたましい笑い声が響いた。父の八人の妹――小姑たちが、酒を飲みながら母を呼びつける声だ。
「お義姉さん! まだなの? こっちは喉が渇いとるんよ!」
「兄さんの稼ぎで食わせてもらっとるんじゃから、もっとキビキビ動きんさいや!」
母の肩が、微かに、けれど激しく震えた。
包丁を握る母の手が、一瞬だけ止まる。母は深く息を吐き出し、鏡のように磨かれた包丁の側面に、自分の顔を映した。そこに映っているのは、疲弊しきった一人の女の、魂の抜け殻のような形相だった。
私は駆け寄って、その割烹着の裾を掴みたかった。
「お母さん、行かなくていいよ。あんな人たちの言うこと、聞かなくていいよ」
けれど、言葉は喉の奥で氷の塊になって固まった。
母は、私の存在など忘れたかのように、再び包丁を動かし始めた。
トントン。トントン。
それは、彼女が「自分」を繋ぎ止めるための、命の刻み音だったのかもしれない。
「……あんたは、あっちへ行っとき。おばさんたちに見つかったら、また何を言われるかわからん。私は、ここにおらんと、この家は回らんのんよ」
母の声は、もはや私を見ていなかった。
彼女が守ろうとしていたのは、私という娘ではなく、「嫁」としての自分の聖域であり、同時に自らを縛り上げる呪縛の檻だった。
板場に充満する、張り詰めた空気。
私は廊下の冷たい板張りに座り込み、膝を抱えた。
板場と廊下を隔てる一本の溝。それが、私と母の間の、一生渡ることのできない深い海に見えた。
「お母さん」
「なんね、忙しい言うたろう」
「……お腹、すいた」
母は忌々しそうに、けれど機械的な手つきで、余ったご飯を小さな茶碗に盛った。そして、まな板の隅にあった塩の壺から、指先で一掴みの塩をパラパラと振りかける。
「これでも食べんさい。塩ご飯よ。今の私には、これくらいしかしてあげられん」
差し出された茶碗。
母の指が、一瞬だけ、私の指先に触れた。
それは、昼間の泥の熱を帯びているようでいて、芯まで冷え切った、死人のような指先だった。
私はその茶碗を抱えるようにして、自分の部屋へ戻った。
暗い部屋で食べる塩ご飯。
口の中に入れると、塩辛さが舌を刺し、続いて米の甘みがじわりと広がる。
それは、母が私に残してくれる、最後の「愛の出涸らし」のような味がした。
母の全エネルギーは、猛毒を捌くことと、小姑たちの波風を鎮めることに使い果たされていた。
私に残されたのは、塩一振りの無機質な情。
廊下からは、まだ包丁の音が聞こえてくる。
トントン、トントン。
私は耳を塞ぎ、布団に潜り込んだ。
春海という少女は、母に踏まれ、首を絞められ、痛みに泣いた。
私は、その痛みが欲しかった。
「入っちゃいけん」という拒絶ではなく、「ここにおりなさい」という束縛を。
透明な檻の中で、私は母の背中を焼き付け続けていた。
板場の明かりが消え、母が戦士の鎧を脱ぎ捨てて、ただの静かな抜け殻に戻るまで。
私は、その境界線で立ち尽くしていたのだ。
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