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3. 沈黙の食卓
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3. 沈黙の食卓
家の空気は、常に濁った熱を帯びていた。
父の八人の妹たち――小姑(こじゅうと)と呼ばれる女たちが、入れ替わり立ち替わり現れては、茶の間を占拠する。彼女たちの声は、鋭く尖った礫(つぶて)のように家中の壁に跳ね返り、私の逃げ場を塞いでいた。
「お義姉さん! この煮物、ちょっと味が濃くない? 兄さんの体に毒よ」
「あら、こっちのシーツは? まだ干しっぱなし? 百姓仕事もいいけど、家の中が疎かになるんじゃ困るわねぇ」
耳を劈(つんざ)く笑い声。湯呑みが畳に置かれる鈍い音。そして、絶え間なく続く品定めのような視線。
その喧騒の真ん中で、母だけが石像のように静かだった。
「……すみません。すぐやり直します」
母の声は、低く、湿っている。
母は、誰よりも早く起き、泥だらけの長靴を履いて田んぼへ向かう。日が暮れれば割烹着に着替え、夜遅くまで板場に立ち、酔客と小姑たちの世話を焼く。
「はらたぎっくめ(腹一杯)」に働き、最後の一人が寝静まるまで、母の膝が畳につくことはなかった。
「お義姉さーん、肩が凝っちゃった。ちょっと揉んでよ」
「お義姉さん、この前頼んだあの着物、どこに仕舞ったの?」
母は、まるでフグの猛毒を扱うときと同じような、研ぎ澄まされた慎重さで彼女たちの顔色を窺っていた。
一歩間違えれば、この家という名の猛毒が自分を食い破る。母は、その恐怖と背中合わせで、ひたすら「完璧な嫁」という薄い皮を演じ続けていた。
「お母さん」
私は、喧騒の隅っこで母の着物の裾を引いた。
母は小姑に差し出す茶器を盆に乗せたまま、私を視界の端で捉えた。けれど、その瞳には光がなかった。
「……あっちへ行きなさい。今は忙しいんよ」
その一言が、私の胸に冷たい楔を打ち込む。
母の人生の余力は、この理不尽な家族という荒波の中で、自分を、そして家庭という泥舟を沈没させないことだけに、最後の一滴まで費やされていた。
そこには、私を抱きしめるための「一秒」も、私の名前を呼ぶための「一息」も、もう一分(いちぶ)も残されていなかったのだ。
夕食の時間は、地獄のようだった。
父を囲んで、八人の小姑と義母が賑やかに食卓を囲む。笑い声が飛び交い、大皿の料理が次々と消えていく。その華やかな輪の中に、母の席はなかった。
母は常に、台所の隅で立ちながら、あるいは勝手口の段差に腰掛けながら、余った冷たいおかずを口に運んでいた。
「お母さん、こっちで一緒に食べようよ」
私がそう言うと、一番上の叔母が鼻で笑った。
「あら、この子。お義姉さんはね、こうやって動いているのが好きなのよ。ねえ、お義姉さん?」
「……はい。座っていると、落ち着きませんから」
母は、そう答えて小さく笑った。その笑顔は、ひび割れた仮面のように不自然で、痛々しかった。
私は、母の代わりに叔母たちを睨みつけたかった。けれど、母のその「沈黙」こそが、この家で生き延びるための唯一の武器なのだと、子供ながらに悟ってしまった。
ある夜、小姑たちが帰った後。
静まり返った茶の間で、母が一人、後片付けをしていた。
漂白剤のツンとした匂いが鼻を突く。母の手は、昼間の泥と、夜の水仕事で、真っ赤にひび割れていた。
「お母さん、痛くないの?」
私は、母の手をそっと触ろうとした。
母は、弾かれたようにその手を引っ込めた。
「……触っちゃいけん。汚いけぇ」
「汚くないよ。お母さん、いつも頑張ってるもん」
私がそう言うと、母は一瞬だけ、動きを止めた。
割烹着の背中が、小刻みに震えているのが見えた。泣いているのかと思った。けれど、母が振り返った時、その顔に涙はなかった。
ただ、ひどく疲れ果てた、虚ろな眼差しがあるだけだった。
「頑張るとか、そんなんじゃないんよ。……ただ、こうするしか、ないんよ」
母は、絞り出すような声で言った。
その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。
母にとって私は、愛すべき宝物である以上に、守らなければならない「荷物」だったのかもしれない。そして、その荷物を守るためには、私を愛でる余裕すら捨て去らなければならなかった。
「お母さん、私のこと、嫌い?」
残酷な問いが、私の口から漏れた。
母は、ふっと視線を逸らした。そして、何も言わずに再び皿を洗い始めた。
カチャカチャと、陶器の触れ合う音だけが、不毛な会話の終わりを告げていた。
あの日、春海の小説を読んだ時、私は「羨ましい」と泣いた。
彼女を閉じ込めた母は、少なくとも、彼女だけを見ていた。
たとえそれが暴力であっても、足蹴にすることであっても、そのエネルギーのすべては彼女に向けられていた。
私の母のエネルギーは、八人の小姑という怪物に向けられ、泥に消え、フグの毒に溶け、私に届く頃には、もう何の色もついていなかった。
私は、母と同じ家の中にいながら、別の檻に閉じ込められていた。
「無関心」という名の、檻。
食卓に残された、食べ残しの残骸。
母はそれを片付けながら、自分の指先に付いたソースを無意識に舐めた。
その仕草が、あまりにも空腹な、飢えた獣のように見えて、私は目を逸らした。
母もまた、飢えていたのだ。
愛する余裕さえ奪われた、この生活の中で。
夜が更け、家が寝静まると、ようやく母は畳の上に身体を投げ出す。
けれど、眠っている間も、母の眉間には深い皺が刻まれていた。
戦いは、夢の中でも続いているようだった。
「おやすみなさい」
私は、母の枕元に忍び寄り、小さく呟いた。
母の返事はない。
私は、母の頬に手を伸ばしかけて、止めた。
もし触れてしまったら、母が守っている何かが、ガラガラと崩れてしまうような気がしたから。
私は、透明なままでいい。
母が、この家という荒波を乗り越えるためなら、私は空気になっても構わない。
そう自分に言い聞かせながら、私は自分の首元を強く握りしめた。
そこにあるはずのない首輪の感触を、必死に妄想しながら。
沈黙の食卓は、明日もまた始まる。
八人の小姑の笑い声と、母の石のような静寂。
私は、その隙間で、今日も息を潜めて生きるのだ。
家の空気は、常に濁った熱を帯びていた。
父の八人の妹たち――小姑(こじゅうと)と呼ばれる女たちが、入れ替わり立ち替わり現れては、茶の間を占拠する。彼女たちの声は、鋭く尖った礫(つぶて)のように家中の壁に跳ね返り、私の逃げ場を塞いでいた。
「お義姉さん! この煮物、ちょっと味が濃くない? 兄さんの体に毒よ」
「あら、こっちのシーツは? まだ干しっぱなし? 百姓仕事もいいけど、家の中が疎かになるんじゃ困るわねぇ」
耳を劈(つんざ)く笑い声。湯呑みが畳に置かれる鈍い音。そして、絶え間なく続く品定めのような視線。
その喧騒の真ん中で、母だけが石像のように静かだった。
「……すみません。すぐやり直します」
母の声は、低く、湿っている。
母は、誰よりも早く起き、泥だらけの長靴を履いて田んぼへ向かう。日が暮れれば割烹着に着替え、夜遅くまで板場に立ち、酔客と小姑たちの世話を焼く。
「はらたぎっくめ(腹一杯)」に働き、最後の一人が寝静まるまで、母の膝が畳につくことはなかった。
「お義姉さーん、肩が凝っちゃった。ちょっと揉んでよ」
「お義姉さん、この前頼んだあの着物、どこに仕舞ったの?」
母は、まるでフグの猛毒を扱うときと同じような、研ぎ澄まされた慎重さで彼女たちの顔色を窺っていた。
一歩間違えれば、この家という名の猛毒が自分を食い破る。母は、その恐怖と背中合わせで、ひたすら「完璧な嫁」という薄い皮を演じ続けていた。
「お母さん」
私は、喧騒の隅っこで母の着物の裾を引いた。
母は小姑に差し出す茶器を盆に乗せたまま、私を視界の端で捉えた。けれど、その瞳には光がなかった。
「……あっちへ行きなさい。今は忙しいんよ」
その一言が、私の胸に冷たい楔を打ち込む。
母の人生の余力は、この理不尽な家族という荒波の中で、自分を、そして家庭という泥舟を沈没させないことだけに、最後の一滴まで費やされていた。
そこには、私を抱きしめるための「一秒」も、私の名前を呼ぶための「一息」も、もう一分(いちぶ)も残されていなかったのだ。
夕食の時間は、地獄のようだった。
父を囲んで、八人の小姑と義母が賑やかに食卓を囲む。笑い声が飛び交い、大皿の料理が次々と消えていく。その華やかな輪の中に、母の席はなかった。
母は常に、台所の隅で立ちながら、あるいは勝手口の段差に腰掛けながら、余った冷たいおかずを口に運んでいた。
「お母さん、こっちで一緒に食べようよ」
私がそう言うと、一番上の叔母が鼻で笑った。
「あら、この子。お義姉さんはね、こうやって動いているのが好きなのよ。ねえ、お義姉さん?」
「……はい。座っていると、落ち着きませんから」
母は、そう答えて小さく笑った。その笑顔は、ひび割れた仮面のように不自然で、痛々しかった。
私は、母の代わりに叔母たちを睨みつけたかった。けれど、母のその「沈黙」こそが、この家で生き延びるための唯一の武器なのだと、子供ながらに悟ってしまった。
ある夜、小姑たちが帰った後。
静まり返った茶の間で、母が一人、後片付けをしていた。
漂白剤のツンとした匂いが鼻を突く。母の手は、昼間の泥と、夜の水仕事で、真っ赤にひび割れていた。
「お母さん、痛くないの?」
私は、母の手をそっと触ろうとした。
母は、弾かれたようにその手を引っ込めた。
「……触っちゃいけん。汚いけぇ」
「汚くないよ。お母さん、いつも頑張ってるもん」
私がそう言うと、母は一瞬だけ、動きを止めた。
割烹着の背中が、小刻みに震えているのが見えた。泣いているのかと思った。けれど、母が振り返った時、その顔に涙はなかった。
ただ、ひどく疲れ果てた、虚ろな眼差しがあるだけだった。
「頑張るとか、そんなんじゃないんよ。……ただ、こうするしか、ないんよ」
母は、絞り出すような声で言った。
その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。
母にとって私は、愛すべき宝物である以上に、守らなければならない「荷物」だったのかもしれない。そして、その荷物を守るためには、私を愛でる余裕すら捨て去らなければならなかった。
「お母さん、私のこと、嫌い?」
残酷な問いが、私の口から漏れた。
母は、ふっと視線を逸らした。そして、何も言わずに再び皿を洗い始めた。
カチャカチャと、陶器の触れ合う音だけが、不毛な会話の終わりを告げていた。
あの日、春海の小説を読んだ時、私は「羨ましい」と泣いた。
彼女を閉じ込めた母は、少なくとも、彼女だけを見ていた。
たとえそれが暴力であっても、足蹴にすることであっても、そのエネルギーのすべては彼女に向けられていた。
私の母のエネルギーは、八人の小姑という怪物に向けられ、泥に消え、フグの毒に溶け、私に届く頃には、もう何の色もついていなかった。
私は、母と同じ家の中にいながら、別の檻に閉じ込められていた。
「無関心」という名の、檻。
食卓に残された、食べ残しの残骸。
母はそれを片付けながら、自分の指先に付いたソースを無意識に舐めた。
その仕草が、あまりにも空腹な、飢えた獣のように見えて、私は目を逸らした。
母もまた、飢えていたのだ。
愛する余裕さえ奪われた、この生活の中で。
夜が更け、家が寝静まると、ようやく母は畳の上に身体を投げ出す。
けれど、眠っている間も、母の眉間には深い皺が刻まれていた。
戦いは、夢の中でも続いているようだった。
「おやすみなさい」
私は、母の枕元に忍び寄り、小さく呟いた。
母の返事はない。
私は、母の頬に手を伸ばしかけて、止めた。
もし触れてしまったら、母が守っている何かが、ガラガラと崩れてしまうような気がしたから。
私は、透明なままでいい。
母が、この家という荒波を乗り越えるためなら、私は空気になっても構わない。
そう自分に言い聞かせながら、私は自分の首元を強く握りしめた。
そこにあるはずのない首輪の感触を、必死に妄想しながら。
沈黙の食卓は、明日もまた始まる。
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