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第1話:九年間の幽閉
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第1話:九年間の幽閉
湿った雑巾の、饐(す)えた匂いが鼻を突く。
九歳の新菜にとって、放課後のチャイムは自由の合図ではなく、重い扉が閉まる音だった。
「新菜、まだ終わってないの? 手際が悪いわね。お母さんたちはこれから、結菜(ゆいな)の誕生日のお祝いに銀座まで行くんだから。おばあちゃんのこと、よろしくね」
玄関で華やかな香水の香りを振りまきながら、母は鏡を見てピアスを直している。その後ろで、フリルのついたドレスを着た六歳の妹・結菜が、新品のリカちゃん人形を抱えて「早く行こうよー!」と跳ねていた。
「……お母さん。あの、今日の宿題、算数のドリルが難しくて」
新菜がおずおずと差し出したノートを、母は見向きもしなかった。
「おばあちゃんが可哀想でしょ? ひとりで寂しく寝たきりなのよ。新菜は優しい子だもんね。宿題なんて夜にでもできるでしょ。おばあちゃんの家、すぐ隣なんだから。さあ、行ってきます」
バタン、と重厚なドアが閉まる。
静まり返った家の中に、新菜の呼吸音だけが虚しく響いた。
新菜は、廊下を渡って離れにある祖母の部屋へと向かう。
そこは、別の時間が流れている場所だった。遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋には、湿布の匂いと、老いた体から漏れ出す独特の枯れた香りが充満している。
「新菜……か……」
ベッドの中から、掠れた声が聞こえる。九歳だった新菜が、初めて「要介護1」と書かれた認定証の意味を知ったあの日から、彼女の放課後はこの部屋に閉じ込められた。
「うん、おばあちゃん。今、お粥作るからね」
台所に立ち、踏み台に乗って火を使う。熱い湯気が頬を刺す。
同級生たちが塾や公園で笑い合っている時間に、新菜は一人、焦げ付かないようにお粥を混ぜ続ける。指先には、何度も洗剤で荒れたあかぎれが、火の熱に反応してズキズキと疼いた。
夜の八時。祖母の食事を終え、おむつを替え、体を拭き上げる。
小さな手で、大人の重い足を支えるのは骨が折れる。関節がミシミシと鳴り、腰に鋭い痛みが走る。九歳の骨格には、介護はあまりに重労働だった。
「……新菜、ごめんねえ、ごめんねえ」
祖母は時折、申し訳なさそうに涙を流す。その涙を拭うたび、新菜の胸には「私が頑張らなきゃ」という、呪いのような義務感が積み上がっていく。
けれど、その義務感を支えるはずの両親からの「愛」という報酬は、どこにもなかった。
夜の十時を回った頃、母屋から賑やかな笑い声が聞こえてくる。
新菜は泥のように疲れた体を引きずって、母屋の勝手口から中を覗いた。リビングのテーブルには、大きなケーキの箱と、色とりどりのプレゼントの包み紙が散乱している。
「あー、楽しかった! 結菜、お肉美味しかったね」
「うん! パパ、次はディズニーランド連れてってね!」
父が結菜を高く抱き上げ、頭を撫でる。
新菜はその光景を、暗い廊下の影からじっと見つめていた。自分の存在が、この家から消えてしまったかのような錯覚に陥る。
「あ、新菜。戻ってたの」
父がようやく気づいたように声をかけるが、その視線はすぐにテレビへと戻った。
「おばあちゃんの着替え、ちゃんと予備を揃えておけよ。明日、俺たちは朝からゴルフなんだから。朝飯の用意も、新菜がやっておけ」
……おめでとう。
新菜が、妹に言おうとしていた言葉は、喉の奥で冷たく固まって飲み込まれた。
「……ねえ、お父さん。私、最近、学校で図工の賞をもらったの」
せめて、ひと言。頑張ったねと言ってほしくて、新菜は絞り出すように言った。
しかし、父は面倒そうに鼻を鳴らした。
「そんなことより、おばあちゃんの部屋の掃除は済んだのか? 埃っぽいと喘息が出るだろ。自分のことより、家のことを優先しろ。それが家族だろ」
冷たい氷水を背中から流し込まれたような感覚。
五感が、冬の夜のように凍りついていく。
新菜の耳には、妹の笑い声が、自分を削り取るヤスリの音のように聞こえ始めた。
自室に戻り、一人で学習机に向かう。
開いた算数のドリル。数字が涙で滲んで読めない。
ふと鏡を見ると、そこには、九歳とは思えないほど疲れ果てた、色のない顔をした女の子が映っていた。
頬を撫でてくれる手はない。頑張ったねと言ってくれる抱擁もない。
あるのは、明日もまた、暗い部屋で「おばあちゃんが可哀想でしょ」という言葉に縛られ、雑巾を絞る日々だけ。
「私は……お人形じゃない」
小さな呟きは、深夜の静寂に吸い込まれて消えた。
これが、九年間に及ぶ幽閉の、まだ始まりに過ぎないことを、その時の新菜は知る由もなかった。
爪を立てて握りしめた拳の中に、かすかな皮膚の痛みだけが、自分が生きている証明として残っていた。
湿った雑巾の、饐(す)えた匂いが鼻を突く。
九歳の新菜にとって、放課後のチャイムは自由の合図ではなく、重い扉が閉まる音だった。
「新菜、まだ終わってないの? 手際が悪いわね。お母さんたちはこれから、結菜(ゆいな)の誕生日のお祝いに銀座まで行くんだから。おばあちゃんのこと、よろしくね」
玄関で華やかな香水の香りを振りまきながら、母は鏡を見てピアスを直している。その後ろで、フリルのついたドレスを着た六歳の妹・結菜が、新品のリカちゃん人形を抱えて「早く行こうよー!」と跳ねていた。
「……お母さん。あの、今日の宿題、算数のドリルが難しくて」
新菜がおずおずと差し出したノートを、母は見向きもしなかった。
「おばあちゃんが可哀想でしょ? ひとりで寂しく寝たきりなのよ。新菜は優しい子だもんね。宿題なんて夜にでもできるでしょ。おばあちゃんの家、すぐ隣なんだから。さあ、行ってきます」
バタン、と重厚なドアが閉まる。
静まり返った家の中に、新菜の呼吸音だけが虚しく響いた。
新菜は、廊下を渡って離れにある祖母の部屋へと向かう。
そこは、別の時間が流れている場所だった。遮光カーテンが引かれた薄暗い部屋には、湿布の匂いと、老いた体から漏れ出す独特の枯れた香りが充満している。
「新菜……か……」
ベッドの中から、掠れた声が聞こえる。九歳だった新菜が、初めて「要介護1」と書かれた認定証の意味を知ったあの日から、彼女の放課後はこの部屋に閉じ込められた。
「うん、おばあちゃん。今、お粥作るからね」
台所に立ち、踏み台に乗って火を使う。熱い湯気が頬を刺す。
同級生たちが塾や公園で笑い合っている時間に、新菜は一人、焦げ付かないようにお粥を混ぜ続ける。指先には、何度も洗剤で荒れたあかぎれが、火の熱に反応してズキズキと疼いた。
夜の八時。祖母の食事を終え、おむつを替え、体を拭き上げる。
小さな手で、大人の重い足を支えるのは骨が折れる。関節がミシミシと鳴り、腰に鋭い痛みが走る。九歳の骨格には、介護はあまりに重労働だった。
「……新菜、ごめんねえ、ごめんねえ」
祖母は時折、申し訳なさそうに涙を流す。その涙を拭うたび、新菜の胸には「私が頑張らなきゃ」という、呪いのような義務感が積み上がっていく。
けれど、その義務感を支えるはずの両親からの「愛」という報酬は、どこにもなかった。
夜の十時を回った頃、母屋から賑やかな笑い声が聞こえてくる。
新菜は泥のように疲れた体を引きずって、母屋の勝手口から中を覗いた。リビングのテーブルには、大きなケーキの箱と、色とりどりのプレゼントの包み紙が散乱している。
「あー、楽しかった! 結菜、お肉美味しかったね」
「うん! パパ、次はディズニーランド連れてってね!」
父が結菜を高く抱き上げ、頭を撫でる。
新菜はその光景を、暗い廊下の影からじっと見つめていた。自分の存在が、この家から消えてしまったかのような錯覚に陥る。
「あ、新菜。戻ってたの」
父がようやく気づいたように声をかけるが、その視線はすぐにテレビへと戻った。
「おばあちゃんの着替え、ちゃんと予備を揃えておけよ。明日、俺たちは朝からゴルフなんだから。朝飯の用意も、新菜がやっておけ」
……おめでとう。
新菜が、妹に言おうとしていた言葉は、喉の奥で冷たく固まって飲み込まれた。
「……ねえ、お父さん。私、最近、学校で図工の賞をもらったの」
せめて、ひと言。頑張ったねと言ってほしくて、新菜は絞り出すように言った。
しかし、父は面倒そうに鼻を鳴らした。
「そんなことより、おばあちゃんの部屋の掃除は済んだのか? 埃っぽいと喘息が出るだろ。自分のことより、家のことを優先しろ。それが家族だろ」
冷たい氷水を背中から流し込まれたような感覚。
五感が、冬の夜のように凍りついていく。
新菜の耳には、妹の笑い声が、自分を削り取るヤスリの音のように聞こえ始めた。
自室に戻り、一人で学習机に向かう。
開いた算数のドリル。数字が涙で滲んで読めない。
ふと鏡を見ると、そこには、九歳とは思えないほど疲れ果てた、色のない顔をした女の子が映っていた。
頬を撫でてくれる手はない。頑張ったねと言ってくれる抱擁もない。
あるのは、明日もまた、暗い部屋で「おばあちゃんが可哀想でしょ」という言葉に縛られ、雑巾を絞る日々だけ。
「私は……お人形じゃない」
小さな呟きは、深夜の静寂に吸い込まれて消えた。
これが、九年間に及ぶ幽閉の、まだ始まりに過ぎないことを、その時の新菜は知る由もなかった。
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