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第1話:九年間の幽閉(承前)
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第1話:九年間の幽閉(承前)
「新菜! またシーツ汚したの!? 鼻がひん曲がりそうなんだけど!」
リビングから飛んできた母の鋭い声に、九歳の新菜は肩を震わせた。
祖母の部屋には、饐えたような独特の匂いが立ち込めている。それはアンモニアと、老いた皮膚が剥がれ落ちる粉っぽさと、長い間日光に当たっていない部屋特有の澱んだ空気。
おむつの隙間から漏れた便が、白いシーツに茶色の地図を描いていた。
新菜は、まだ小さな掌を広げ、震える指でその不潔な固形物を拭い取ろうとする。
「……ごめんね、おばあちゃん。すぐ綺麗にするからね」
洗面所から持ってきた濡れタオルは、冬の冷気を含んで刺すように冷たかった。祖母の肌を傷つけないよう、けれど汚れが残らないよう、新菜は必死に手を動かす。
「汚い……汚いよ……ごめんねえ、新菜……」
祖母の枯れ木のような指が、新菜の細い手首を弱々しく掴む。
おしっこや便の重みが染み込んだシーツは、水を含むと恐ろしく重かった。九歳の腕の力では、それを絞るだけで握力がなくなり、指の関節が白く浮き出る。
「新菜、まだ終わらないの? 全く、要領が悪いんだから。そんなんじゃ将来、何もできない大人になるわよ」
ドアの隙間から顔を出した母は、鼻を指でつまみ、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
その手に握られているのは、妹の結菜のために買ってきたばかりの、甘い香りが漂う焼き立てのアップルパイだ。
「お母さん、重くて……これ、洗濯機まで運ぶの、手伝って」
「はあ? 私の服に匂いがついたらどうするのよ。あんたがモタモタしてるからおばあちゃんが可哀想なことになってるんでしょ。自分の責任でやりなさい」
バタン。
ドアの閉まる音が、新菜の胸の奥を硬い石で叩いたような衝撃を与える。
お風呂の時間になれば、さらなる地獄が待っている。
タイル張りの冷たい浴室。湯気で真っ白になった空間で、新菜は裸になった祖母を支える。濡れた床は滑りやすく、もし祖母が転んだら自分のせいだという恐怖が、常に心臓をバクバクと波打たせた。
「おばあちゃん、右足上げて。ゆっくりだよ」
自分よりずっと大きな体を支える新菜の細い足は、武者震いのようにガクガクと震えている。
シャンプーの泡が目に入らないよう、細心の注意を払って髪を洗う。
石鹸の香りに混じって、祖母の皮膚の奥から漂う「老い」の匂い。
鏡に映る自分は、湿気で髪が張り付き、目の下には九歳児にはあるまじき濃い隈が刻まれていた。
「……きつい」
ポツリと漏れた独り言。
けれど、それを聞いた父が脱衣所の向こうから怒鳴りつけた。
「きつい? 何がだ。学校に行って、飯を食って、屋根のある場所で寝てる癖に。お前、おばあちゃんがいなかったら今の生活があると思ってるのか? 恩知らずなことを言うな。ちゃんとできないのは、お前の根性が腐ってるからだ」
父の言葉は、鋭い刃物となって新菜の自尊心を削り取っていく。
ちゃんとできない。
おむつを替えるのに時間がかかる。
料理の味が薄い。
買い物で重い袋を引きずって歩くのが遅い。
そのすべてが「自分の能力不足」だと思い込まされていった。
本当は、九歳の女の子は友達と放課後にアイスを食べて、好きなアイドルの話をしたり、宿題の愚痴を言ったりして笑い合うものだ。
けれど新菜の世界にあるのは、介護の「7K」――きつく、汚く、危険で、休暇もなく、逃げ場のない監獄。
化粧がのらないどころか、肌は荒れ、鏡を見る余裕すらない。
「新菜、お買い物。牛乳とお肉、あと結菜のアイスも忘れないでね。あ、重いからって泣き言言わないでよ、お姉ちゃんでしょ」
母から渡された小銭を握りしめ、新菜は夕暮れの街を歩く。
近所の公園からは、結菜と同じくらいの子供たちが親と手を繋いで帰る姿が見えた。
「今日のご飯なあに?」「ハンバーグだよ」
そんな当たり前の会話が、新菜には異世界の言葉のように聞こえた。
スーパーで重い買い物袋を両手に下げると、ビニールの取っ手が指に食い込み、感覚がなくなっていく。
それでも、「ちゃんとやらなきゃ」「怒られないようにしなきゃ」という強迫観念が、折れそうな心を無理やり立たせていた。
深夜、ようやく祖母が寝静まったあと。
新菜は自室の机で、震える手でノートを開く。
漢字の練習をしようとしても、指先が強張って思うように動かない。
「なんで……なんで私だけ、普通にできないの……」
涙がポトリと落ちて、ノートの文字を滲ませた。
自分がダメな人間だから。自分がもっとしっかりしていないから、みんながイライラするんだ。
そうやって、両親から投げつけられた呪いの言葉を、新菜は自分で自分に塗り重ねていく。
窓の外では、家族旅行の計画を立てる両親の笑い声と、妹の無邪気なはしゃぎ声が聞こえてくる。
「新菜はお留守番ね。おばあちゃんを見ててくれる『優しい子』なんだから」
その「優しい」という言葉が、世界で一番残酷な暴力であることを、九歳の少女はまだ言語化できないまま、ただ暗い部屋で雑巾のような心を絞り続けていた。
これが、新菜の日常。
光を奪われ、感謝もされず、ただ「できて当たり前」を強要される、九年間に及ぶ地獄の初日だった。
「新菜! またシーツ汚したの!? 鼻がひん曲がりそうなんだけど!」
リビングから飛んできた母の鋭い声に、九歳の新菜は肩を震わせた。
祖母の部屋には、饐えたような独特の匂いが立ち込めている。それはアンモニアと、老いた皮膚が剥がれ落ちる粉っぽさと、長い間日光に当たっていない部屋特有の澱んだ空気。
おむつの隙間から漏れた便が、白いシーツに茶色の地図を描いていた。
新菜は、まだ小さな掌を広げ、震える指でその不潔な固形物を拭い取ろうとする。
「……ごめんね、おばあちゃん。すぐ綺麗にするからね」
洗面所から持ってきた濡れタオルは、冬の冷気を含んで刺すように冷たかった。祖母の肌を傷つけないよう、けれど汚れが残らないよう、新菜は必死に手を動かす。
「汚い……汚いよ……ごめんねえ、新菜……」
祖母の枯れ木のような指が、新菜の細い手首を弱々しく掴む。
おしっこや便の重みが染み込んだシーツは、水を含むと恐ろしく重かった。九歳の腕の力では、それを絞るだけで握力がなくなり、指の関節が白く浮き出る。
「新菜、まだ終わらないの? 全く、要領が悪いんだから。そんなんじゃ将来、何もできない大人になるわよ」
ドアの隙間から顔を出した母は、鼻を指でつまみ、あからさまに嫌悪の表情を浮かべた。
その手に握られているのは、妹の結菜のために買ってきたばかりの、甘い香りが漂う焼き立てのアップルパイだ。
「お母さん、重くて……これ、洗濯機まで運ぶの、手伝って」
「はあ? 私の服に匂いがついたらどうするのよ。あんたがモタモタしてるからおばあちゃんが可哀想なことになってるんでしょ。自分の責任でやりなさい」
バタン。
ドアの閉まる音が、新菜の胸の奥を硬い石で叩いたような衝撃を与える。
お風呂の時間になれば、さらなる地獄が待っている。
タイル張りの冷たい浴室。湯気で真っ白になった空間で、新菜は裸になった祖母を支える。濡れた床は滑りやすく、もし祖母が転んだら自分のせいだという恐怖が、常に心臓をバクバクと波打たせた。
「おばあちゃん、右足上げて。ゆっくりだよ」
自分よりずっと大きな体を支える新菜の細い足は、武者震いのようにガクガクと震えている。
シャンプーの泡が目に入らないよう、細心の注意を払って髪を洗う。
石鹸の香りに混じって、祖母の皮膚の奥から漂う「老い」の匂い。
鏡に映る自分は、湿気で髪が張り付き、目の下には九歳児にはあるまじき濃い隈が刻まれていた。
「……きつい」
ポツリと漏れた独り言。
けれど、それを聞いた父が脱衣所の向こうから怒鳴りつけた。
「きつい? 何がだ。学校に行って、飯を食って、屋根のある場所で寝てる癖に。お前、おばあちゃんがいなかったら今の生活があると思ってるのか? 恩知らずなことを言うな。ちゃんとできないのは、お前の根性が腐ってるからだ」
父の言葉は、鋭い刃物となって新菜の自尊心を削り取っていく。
ちゃんとできない。
おむつを替えるのに時間がかかる。
料理の味が薄い。
買い物で重い袋を引きずって歩くのが遅い。
そのすべてが「自分の能力不足」だと思い込まされていった。
本当は、九歳の女の子は友達と放課後にアイスを食べて、好きなアイドルの話をしたり、宿題の愚痴を言ったりして笑い合うものだ。
けれど新菜の世界にあるのは、介護の「7K」――きつく、汚く、危険で、休暇もなく、逃げ場のない監獄。
化粧がのらないどころか、肌は荒れ、鏡を見る余裕すらない。
「新菜、お買い物。牛乳とお肉、あと結菜のアイスも忘れないでね。あ、重いからって泣き言言わないでよ、お姉ちゃんでしょ」
母から渡された小銭を握りしめ、新菜は夕暮れの街を歩く。
近所の公園からは、結菜と同じくらいの子供たちが親と手を繋いで帰る姿が見えた。
「今日のご飯なあに?」「ハンバーグだよ」
そんな当たり前の会話が、新菜には異世界の言葉のように聞こえた。
スーパーで重い買い物袋を両手に下げると、ビニールの取っ手が指に食い込み、感覚がなくなっていく。
それでも、「ちゃんとやらなきゃ」「怒られないようにしなきゃ」という強迫観念が、折れそうな心を無理やり立たせていた。
深夜、ようやく祖母が寝静まったあと。
新菜は自室の机で、震える手でノートを開く。
漢字の練習をしようとしても、指先が強張って思うように動かない。
「なんで……なんで私だけ、普通にできないの……」
涙がポトリと落ちて、ノートの文字を滲ませた。
自分がダメな人間だから。自分がもっとしっかりしていないから、みんながイライラするんだ。
そうやって、両親から投げつけられた呪いの言葉を、新菜は自分で自分に塗り重ねていく。
窓の外では、家族旅行の計画を立てる両親の笑い声と、妹の無邪気なはしゃぎ声が聞こえてくる。
「新菜はお留守番ね。おばあちゃんを見ててくれる『優しい子』なんだから」
その「優しい」という言葉が、世界で一番残酷な暴力であることを、九歳の少女はまだ言語化できないまま、ただ暗い部屋で雑巾のような心を絞り続けていた。
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