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第2話:沈黙の看取り
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第2話:沈黙の看取り
深夜二時、静寂を切り裂いたのは、機械的なアラーム音ではなく、ただ「音が消えた」ことだった。
ずっと部屋の隅で鳴り続けていた、喘ぐような、湿った酸素の吸入音。それが不自然に途絶えた瞬間、新菜の意識は跳ねるように覚醒した。
九年。
九歳から十八歳まで、新菜が捧げた日数のすべてが、この薄暗い六畳間に沈殿している。
「……おばあちゃん?」
新菜は、ベッドに横たわる祖母の顔を覗き込んだ。
要介護3。食事を飲み込む力も、新菜の手を握り返す力も、数ヶ月前に失われていた。
頬を触ると、驚くほど冷たい。けれど新菜は泣かなかった。涙の代わりにこみ上げてきたのは、肺の奥を埋め尽くすような、灰色の虚無感だった。
(ああ……終わったんだ)
悲しみでも、絶望でもない。「これで、もうシーツを洗わなくていいんだ」という、泥のような安堵が胸をかすめた。そんな自分にゾッとする余裕すら、今の新菜には残っていない。
朝になり、医者が死亡を確認し、葬儀屋がやってくる。
新菜は幽霊のように立ち尽くしていた。九年間、一度もまともに手伝わなかった両親が、急に「家族の主導権」を握り、親戚に電話をかけまくる。
「ええ、本当に……。最後は私たちがつきっきりで看病して。新菜も、ようやく肩の荷が下りたんじゃないかな」
リビングから聞こえる母の、湿り気を帯びた「悲劇のヒロイン」の声。
新菜は拳を握りしめた。つきっきり? あなたたちは、おばあちゃんが最後に言葉を発したのがいつだったかさえ、知らないじゃないか。
---
葬儀の日は、冷たい雨が降っていた。
お線香の煙が目に染みて、喉の奥をチクチクと刺す。
新菜は喪服に身を包み、受付から弔問客の応対まで立ち仕事でこなしていた。脚の浮腫(むく)みがひどく、靴の中で足先がジンジンと痛む。
そこへ、出番を終えて控室でくつろぐ両親の話し声が漏れてきた。
「なあ、おふくろの遺産、土地と合わせて一千万は下らないだろ。あいつ、堅実だったからな」
父が、精進落としの寿司を頬張りながら、隠しきれない高揚感で言った。
「そうよ。これで結菜の私立大学の費用も出るし、私たちの老後も安泰ね。家もリフォームしましょうよ。おばあちゃんの部屋、ずっと介護の匂いが染み付いてて嫌だったのよね」
母の笑い声。それは、亡くなったばかりの肉親への敬意も、九年間使い潰した娘への配慮も、微塵も含まれていない乾いた音だった。
新菜は、震える手で控室のドアを開けた。
「……お父さん、お母さん」
二人は、新菜の顔を見るなり、面倒そうに眉を寄せた。
「何よ、新菜。お客さんへの挨拶は終わったの?」
「おばあちゃん、死んだばっかりだよ。なんで……なんで、お金の話ばっかりなの。少しは、おばあちゃんのために悲しんであげてよ。……あと、私。九年間、一度も休まずに頑張ったよ。一言だけでいいから……『お疲れ様』って、言ってよ」
新菜の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
心臓が、肋骨の裏側を激しく叩いている。九年間溜め込んできた、どす黒い感情の澱(おり)が、決壊寸前のダムのように震えている。
父は、持っていた割り箸をテーブルに置いた。
「お疲れ様? 何を言ってるんだ。お前はただ、孫として当然のことをしただけだろ。飯も食わせてもらって、学校も行かせてもらって。介護なんて、家族の助け合いじゃないか。何を恩着せがましい」
「そうよ、新菜。あんた、高校卒業したらどうするつもり? ちょうどいいわ。おばあちゃんがいなくなったから、次は私たちの面倒を見てもらう準備をしなきゃね」
母が、冗談めかした顔で、けれど瞳の奥に冷酷な計算を宿して言った。
「私たちももう若くないんだから。新菜は介護のベテランでしょ? 他の誰に頼むより安心だわ。結菜はこれから華やかな大学生活があるんだし、こういう地味な仕事はあんたに向いてるのよ。あ、次は結菜に頭を撫でてもらうんじゃなくて、私たちが死ぬまで尽くしてちょうだいね。うふふ」
その笑い声が、新菜の頭の中で鋭い高周波となって響いた。
視界が真っ赤に染まる。
指先の感覚が消え、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
(助けて)
心の中で叫んだ。けれど、目の前の二人は、自分を「人間」として見ていない。
ただの、便利な介護ロボット。
壊れても代わりが効く、感情のない労働力。
「……私は、二人の奴隷じゃない」
「なんですって?」
母が聞き返した。新菜の耳にはもう、自分の鼓動の音しか聞こえない。
九年間、祖母の体を拭き続けた手。おむつを替えた指。
そのすべてが、自分の意志ではなく、この二人の快楽のために吸い取られてきたのだ。
「もう……無理……」
新菜の膝から力が抜けた。
冷たい床に、崩れ落ちる。
葬儀会場に漂う、死の匂いとお線香の煙、そして両親の強欲な脂の匂い。
それらが混ざり合い、新菜の意識をどろどろに溶かしていく。
「ちょっと新菜! こんなところで倒れないでよ、縁起が悪いわね!」
母の罵声を最後に、新菜の世界は真っ暗な深海へと沈んでいった。
心の中で、何かが「パチン」と音を立てて千切れた。
それは、彼女をこの世に繋ぎ止めていた、細い、細い糸だった。
深夜二時、静寂を切り裂いたのは、機械的なアラーム音ではなく、ただ「音が消えた」ことだった。
ずっと部屋の隅で鳴り続けていた、喘ぐような、湿った酸素の吸入音。それが不自然に途絶えた瞬間、新菜の意識は跳ねるように覚醒した。
九年。
九歳から十八歳まで、新菜が捧げた日数のすべてが、この薄暗い六畳間に沈殿している。
「……おばあちゃん?」
新菜は、ベッドに横たわる祖母の顔を覗き込んだ。
要介護3。食事を飲み込む力も、新菜の手を握り返す力も、数ヶ月前に失われていた。
頬を触ると、驚くほど冷たい。けれど新菜は泣かなかった。涙の代わりにこみ上げてきたのは、肺の奥を埋め尽くすような、灰色の虚無感だった。
(ああ……終わったんだ)
悲しみでも、絶望でもない。「これで、もうシーツを洗わなくていいんだ」という、泥のような安堵が胸をかすめた。そんな自分にゾッとする余裕すら、今の新菜には残っていない。
朝になり、医者が死亡を確認し、葬儀屋がやってくる。
新菜は幽霊のように立ち尽くしていた。九年間、一度もまともに手伝わなかった両親が、急に「家族の主導権」を握り、親戚に電話をかけまくる。
「ええ、本当に……。最後は私たちがつきっきりで看病して。新菜も、ようやく肩の荷が下りたんじゃないかな」
リビングから聞こえる母の、湿り気を帯びた「悲劇のヒロイン」の声。
新菜は拳を握りしめた。つきっきり? あなたたちは、おばあちゃんが最後に言葉を発したのがいつだったかさえ、知らないじゃないか。
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葬儀の日は、冷たい雨が降っていた。
お線香の煙が目に染みて、喉の奥をチクチクと刺す。
新菜は喪服に身を包み、受付から弔問客の応対まで立ち仕事でこなしていた。脚の浮腫(むく)みがひどく、靴の中で足先がジンジンと痛む。
そこへ、出番を終えて控室でくつろぐ両親の話し声が漏れてきた。
「なあ、おふくろの遺産、土地と合わせて一千万は下らないだろ。あいつ、堅実だったからな」
父が、精進落としの寿司を頬張りながら、隠しきれない高揚感で言った。
「そうよ。これで結菜の私立大学の費用も出るし、私たちの老後も安泰ね。家もリフォームしましょうよ。おばあちゃんの部屋、ずっと介護の匂いが染み付いてて嫌だったのよね」
母の笑い声。それは、亡くなったばかりの肉親への敬意も、九年間使い潰した娘への配慮も、微塵も含まれていない乾いた音だった。
新菜は、震える手で控室のドアを開けた。
「……お父さん、お母さん」
二人は、新菜の顔を見るなり、面倒そうに眉を寄せた。
「何よ、新菜。お客さんへの挨拶は終わったの?」
「おばあちゃん、死んだばっかりだよ。なんで……なんで、お金の話ばっかりなの。少しは、おばあちゃんのために悲しんであげてよ。……あと、私。九年間、一度も休まずに頑張ったよ。一言だけでいいから……『お疲れ様』って、言ってよ」
新菜の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
心臓が、肋骨の裏側を激しく叩いている。九年間溜め込んできた、どす黒い感情の澱(おり)が、決壊寸前のダムのように震えている。
父は、持っていた割り箸をテーブルに置いた。
「お疲れ様? 何を言ってるんだ。お前はただ、孫として当然のことをしただけだろ。飯も食わせてもらって、学校も行かせてもらって。介護なんて、家族の助け合いじゃないか。何を恩着せがましい」
「そうよ、新菜。あんた、高校卒業したらどうするつもり? ちょうどいいわ。おばあちゃんがいなくなったから、次は私たちの面倒を見てもらう準備をしなきゃね」
母が、冗談めかした顔で、けれど瞳の奥に冷酷な計算を宿して言った。
「私たちももう若くないんだから。新菜は介護のベテランでしょ? 他の誰に頼むより安心だわ。結菜はこれから華やかな大学生活があるんだし、こういう地味な仕事はあんたに向いてるのよ。あ、次は結菜に頭を撫でてもらうんじゃなくて、私たちが死ぬまで尽くしてちょうだいね。うふふ」
その笑い声が、新菜の頭の中で鋭い高周波となって響いた。
視界が真っ赤に染まる。
指先の感覚が消え、全身の毛穴から冷や汗が噴き出した。
(助けて)
心の中で叫んだ。けれど、目の前の二人は、自分を「人間」として見ていない。
ただの、便利な介護ロボット。
壊れても代わりが効く、感情のない労働力。
「……私は、二人の奴隷じゃない」
「なんですって?」
母が聞き返した。新菜の耳にはもう、自分の鼓動の音しか聞こえない。
九年間、祖母の体を拭き続けた手。おむつを替えた指。
そのすべてが、自分の意志ではなく、この二人の快楽のために吸い取られてきたのだ。
「もう……無理……」
新菜の膝から力が抜けた。
冷たい床に、崩れ落ちる。
葬儀会場に漂う、死の匂いとお線香の煙、そして両親の強欲な脂の匂い。
それらが混ざり合い、新菜の意識をどろどろに溶かしていく。
「ちょっと新菜! こんなところで倒れないでよ、縁起が悪いわね!」
母の罵声を最後に、新菜の世界は真っ暗な深海へと沈んでいった。
心の中で、何かが「パチン」と音を立てて千切れた。
それは、彼女をこの世に繋ぎ止めていた、細い、細い糸だった。
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