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第3話:燃え尽きた色
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第3話:燃え尽きた色
葬儀の喧騒が去ったあとの家は、死んだように静かだった。
新菜は祖母の部屋の片付けを命じられていた。「汚いものは全部捨てて、さっさと更地にする準備をして」という母の言葉通り、段ボールに思い出を詰め込んでいく。
その時だった。古びた桐箪笥の奥から、一冊の小さな手帳が転がり落ちた。
表紙には、使い古された革の匂いと、微かな線香の香りが染み付いている。
『新菜へ』
最初の一ページ目、震える筆跡でそう記されていた。
「……っ」
心臓がドクンと跳ねる。新菜は床に座り込み、吸い込まれるようにページをめくった。
そこには、九年間にわたる祖母の独白があった。
『新菜、ごめんね。あんたの若い時間を、この動かない体のために奪ってしまった。あんたが私の体を拭いてくれるたび、私は情けなくて、でもその手の温かさに救われていた。……新菜。両親の言うことを聞かなくていい。これは、私がこっそり貯めたあんたの人生のための学費です。自分のために使いなさい。自分のために生きなさい。誰の身代わりにもなってはいけないよ』
手帳の間に挟まれていたのは、一冊の預金通帳。
新菜名義のその口座には、年金を少しずつ切り崩して貯められたであろう、数百万という数字が刻まれていた。
「おばあちゃん……」
視界が滲む。九年間、一度も報われたと思えなかった労働が、この一冊の手帳によって初めて「愛」として肯定された気がした。
だが、その瞬間だった。
「あら、何それ。見せてごらんなさい」
背後から伸びてきた母の手が、乱暴に通帳を奪い取った。隣には父も立っている。二人の目は、通帳の数字を見た瞬間に、飢えた獣のようにギラついた。
「……えっ、こんなに? 嘘でしょ、おばあちゃん、隠し持ってたのね!」
「おい、これだけあれば家のローンも返せるし、車も買い替えられるぞ。さすが新菜だ、おばあちゃんを上手く転がしてたんだな」
新菜は、言葉を失った。
今の言葉は、祖母を「金蔓」としてしか見ていない証拠だった。
さらに不気味だったのは、その直後の豹変だ。母が、今まで一度も見せたことのないような、とろけるような笑みを浮かべて新菜の肩を抱いた。
「新菜ぁ、お疲れ様。今まで本当に大変だったわよね。お母さん、実は感謝してたのよ。これからは、もっとゆっくりしていいのよ?」
母の手が、新菜の頭を撫でる。
九年間、一度も望んでも得られなかった「頭を撫でる」という行為。
けれど、それは羽毛のような優しさではなく、粘り気のある汚物で塗りつぶされるような不快感だった。
「そうだよ新菜。お前は我が家の功労者だ。この金も、まあ一旦お父さんが預かって、新菜の将来のために『管理』してやるからな。さあ、今夜は高級な寿司でも取ろう。新菜、何が食べたい?」
父の低い声が、媚を売るように耳元で鳴る。
さっきまで「奴隷」のように扱っていた娘を、金の卵を産む鶏のように崇め始める。そのあまりの厚顔無恥さと、不自然な優しさ。
(気持ち悪い……)
胃の底から、酸っぱい液体がせり上がってきた。
五感が、警報を鳴らしている。
母の香水の匂いが、猛毒のガスのように感じられる。
父の笑顔が、皮膚を剥ぎ取るナイフのように見える。
九年間の極限の疲労。看取りの虚無感。そして、最も信じたくなかった「親の正体」への絶望。それらが一気に爆発し、新菜の脳内の回路を焼き切った。
「……やめて」
「え? 何、新菜? 聞こえないわよ、もっと大きな声で……」
「触らないでッ!!」
新菜は絶叫した。自分の喉が裂けるほどの悲鳴。
母を突き飛ばし、新菜はその場に蹲った。
世界が、急速に色を失っていく。
鮮やかなリビングの照明が、灰色に。
豪華な寿司のネタが、泥の塊に。
自分の手さえも、自分のものとは思えないほど遠く、冷たくなっていく。
「新菜? おい、しっかりしろ! お金の話の途中で……」
父の声が、水の中にいるように遠のいていく。
新菜は、指先ひとつ動かせなくなった。
呼吸の仕方が、わからない。
酸素を吸い込もうとしても、肺が石になったように固まって動かない。
「……暗い。……寒い……」
新菜の瞳から、光が消えた。
九年間、無理やり張り詰めていた心の弦が、粉々に砕け散ったのだ。
そのまま、彼女は畳の上に倒れ伏した。
意識が途切れる直前、新菜の目に映ったのは、心配そうに自分を覗き込む両親……ではなく、倒れた拍子に投げ出された「預金通帳」を慌てて拾い上げる母の、浅ましい指先だった。
(ああ……私、もう死んだんだ)
肉体は生きている。けれど、心という灯火は、完全に燃え尽きた。
新菜はそのまま、深い、深い、終わりのない闇の底へと落ちていった。
葬儀の喧騒が去ったあとの家は、死んだように静かだった。
新菜は祖母の部屋の片付けを命じられていた。「汚いものは全部捨てて、さっさと更地にする準備をして」という母の言葉通り、段ボールに思い出を詰め込んでいく。
その時だった。古びた桐箪笥の奥から、一冊の小さな手帳が転がり落ちた。
表紙には、使い古された革の匂いと、微かな線香の香りが染み付いている。
『新菜へ』
最初の一ページ目、震える筆跡でそう記されていた。
「……っ」
心臓がドクンと跳ねる。新菜は床に座り込み、吸い込まれるようにページをめくった。
そこには、九年間にわたる祖母の独白があった。
『新菜、ごめんね。あんたの若い時間を、この動かない体のために奪ってしまった。あんたが私の体を拭いてくれるたび、私は情けなくて、でもその手の温かさに救われていた。……新菜。両親の言うことを聞かなくていい。これは、私がこっそり貯めたあんたの人生のための学費です。自分のために使いなさい。自分のために生きなさい。誰の身代わりにもなってはいけないよ』
手帳の間に挟まれていたのは、一冊の預金通帳。
新菜名義のその口座には、年金を少しずつ切り崩して貯められたであろう、数百万という数字が刻まれていた。
「おばあちゃん……」
視界が滲む。九年間、一度も報われたと思えなかった労働が、この一冊の手帳によって初めて「愛」として肯定された気がした。
だが、その瞬間だった。
「あら、何それ。見せてごらんなさい」
背後から伸びてきた母の手が、乱暴に通帳を奪い取った。隣には父も立っている。二人の目は、通帳の数字を見た瞬間に、飢えた獣のようにギラついた。
「……えっ、こんなに? 嘘でしょ、おばあちゃん、隠し持ってたのね!」
「おい、これだけあれば家のローンも返せるし、車も買い替えられるぞ。さすが新菜だ、おばあちゃんを上手く転がしてたんだな」
新菜は、言葉を失った。
今の言葉は、祖母を「金蔓」としてしか見ていない証拠だった。
さらに不気味だったのは、その直後の豹変だ。母が、今まで一度も見せたことのないような、とろけるような笑みを浮かべて新菜の肩を抱いた。
「新菜ぁ、お疲れ様。今まで本当に大変だったわよね。お母さん、実は感謝してたのよ。これからは、もっとゆっくりしていいのよ?」
母の手が、新菜の頭を撫でる。
九年間、一度も望んでも得られなかった「頭を撫でる」という行為。
けれど、それは羽毛のような優しさではなく、粘り気のある汚物で塗りつぶされるような不快感だった。
「そうだよ新菜。お前は我が家の功労者だ。この金も、まあ一旦お父さんが預かって、新菜の将来のために『管理』してやるからな。さあ、今夜は高級な寿司でも取ろう。新菜、何が食べたい?」
父の低い声が、媚を売るように耳元で鳴る。
さっきまで「奴隷」のように扱っていた娘を、金の卵を産む鶏のように崇め始める。そのあまりの厚顔無恥さと、不自然な優しさ。
(気持ち悪い……)
胃の底から、酸っぱい液体がせり上がってきた。
五感が、警報を鳴らしている。
母の香水の匂いが、猛毒のガスのように感じられる。
父の笑顔が、皮膚を剥ぎ取るナイフのように見える。
九年間の極限の疲労。看取りの虚無感。そして、最も信じたくなかった「親の正体」への絶望。それらが一気に爆発し、新菜の脳内の回路を焼き切った。
「……やめて」
「え? 何、新菜? 聞こえないわよ、もっと大きな声で……」
「触らないでッ!!」
新菜は絶叫した。自分の喉が裂けるほどの悲鳴。
母を突き飛ばし、新菜はその場に蹲った。
世界が、急速に色を失っていく。
鮮やかなリビングの照明が、灰色に。
豪華な寿司のネタが、泥の塊に。
自分の手さえも、自分のものとは思えないほど遠く、冷たくなっていく。
「新菜? おい、しっかりしろ! お金の話の途中で……」
父の声が、水の中にいるように遠のいていく。
新菜は、指先ひとつ動かせなくなった。
呼吸の仕方が、わからない。
酸素を吸い込もうとしても、肺が石になったように固まって動かない。
「……暗い。……寒い……」
新菜の瞳から、光が消えた。
九年間、無理やり張り詰めていた心の弦が、粉々に砕け散ったのだ。
そのまま、彼女は畳の上に倒れ伏した。
意識が途切れる直前、新菜の目に映ったのは、心配そうに自分を覗き込む両親……ではなく、倒れた拍子に投げ出された「預金通帳」を慌てて拾い上げる母の、浅ましい指先だった。
(ああ……私、もう死んだんだ)
肉体は生きている。けれど、心という灯火は、完全に燃え尽きた。
新菜はそのまま、深い、深い、終わりのない闇の底へと落ちていった。
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