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第4話:白い部屋の境界線
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第4話:白い部屋の境界線
視界の端から端まで、すべてが白かった。
天井の点検口の四角いライン、無機質なシーツの折り目、遮光カーテンの隙間から漏れる頼りない午後の光。
精神科病棟の保護室に近いその部屋は、音さえも吸い込まれてしまうような静寂に包まれている。
新菜は、シーツの海に沈んでいた。
自分が生きているのか、それとも死んでここに置かれているのか、判別がつかない。喉を通るのは看護師に無理やり飲まされる水だけで、食べ物の匂いを想像するだけで内臓が裏返るような拒絶反応が起きた。
「……にいなさん」
ノックの音のあと、低い、けれど不思議と耳に障らない声がした。
新菜は首を動かすことさえ億劫で、ただ眼球だけを入口の方へ向けた。そこに立っていたのは、白衣を着ていない、くたびれた紺色のカーディガンを羽織った男だった。
「……だれ」
「担当カウンセラーの瀬戸です。今日は、話しに来たわけじゃない。ただ、顔を見に来ただけ」
瀬戸と名乗った男は、新菜のベッドから少し離れた丸椅子に腰を下ろした。彼は無理に目を合わせようとはせず、新菜が見つめているのと同じ、何もない白い壁を眺めている。
「……何か、しなきゃいけないの」
新菜の唇から、掠れた声がこぼれた。それは十八年間、彼女の脳内にこびりついていた呪詛だった。何かをしなければ、価値がない。おばあちゃんの体を拭かなければ。夕飯を作らなければ。両親の機嫌を損ねないように、立ち回らなければ。
「何か? たとえば?」
「おばあちゃんの、おむつを、替えなきゃ。……それから、お父さんの、靴を磨いて。お母さんの、肩を、揉んで……。……早く、起きなきゃ。私、サボってる……」
新菜の指先が、ガタガタと震えだす。シーツを握りしめる力が入り、爪が白く浮き出る。心拍数が上がり、耳の奥でドクドクと不快な音が鳴り響く。
「にいなさん。よく聞いて」
瀬戸が、静かに、けれど鋼のような強さを持って言った。
「ここは病院だ。おばあちゃんも、お父さんも、お母さんもいない。君が世話しなきゃいけない人は、この部屋には一人もいないんだ」
「でも、私がやらなきゃ……みんなが、困る。私が『優しい子』でいないと、家が、壊れる……」
「壊れればいい」
瀬戸の声が、新菜の思考を断ち切った。
新菜は、初めて瀬戸の顔をまともに見た。彼は、冷たいと言ってもいいほどの無表情で、けれど瞳の奥に深い静謐(せいひつ)を湛えて、新菜を見つめていた。
「君が支えなきゃ壊れるような場所は、もう家じゃない。ただの収容所だ。にいなさん。君はもう、誰の期待にも応えなくていい。誰の役にも立たなくていい。……ましてや、誰かのために笑う必要なんて、どこにもないんだ」
「そんなの……ダメだよ。そんなことしたら、私、……私は……」
「何もしない、ただの『新菜』になるだけだ。……いいかい、これは僕からの、最初の処方箋だ」
瀬戸は椅子を引き寄せ、新菜の目線に合わせて身を乗り出した。
「今日から、サボりなさい。徹底的にだ。食べたくなければ食べなくていい。話したくなければ黙っていればいい。……そして、眠りなさい。九年間、君が一度も取れなかった本当の休息を、今ここで取るんだ。君を責める人間は、この扉の向こうには一人も入れさせない」
――誰の期待にも、応えなくていい。
――何もしなくていい。
その言葉が、新菜の胸の奥にある、分厚い氷の壁に小さな亀裂を入れた。
九年間、ずっと張り詰めていた、今にも弾けそうだった鋼鉄の糸が、ふつりと切れた。
「……ほんとうに? 何も、しなくていいの? 怒られないの? お母さんに、ぼろ雑巾みたいだって、言われない?」
「言わせない。ここは僕の聖域だ」
瀬戸の言葉を聴き終える前に、新菜の視界が急激に歪んだ。
熱い液体が、堰を切ったように目尻から溢れ出し、白い枕を汚していく。
声にならなかった。ただ、ヒッ、ヒッ、という、小さな獣のような呼吸だけが、静かな部屋に漏れる。
新菜は、そのまま意識を失うように深い眠りに落ちた。
それからの三日間、新菜はほとんど目を覚まさなかった。
看護師が検温に来ても、点滴を取り替えに来ても、重い泥の底に沈んでいるような眠りから浮き上がってこなかった。
夢も見なかった。ただ、何も考えなくていい漆黒の安らぎが、彼女のボロボロになった神経を、ひたひたと浸し、修復していく。
四日目の朝、カーテンの隙間から差し込んだ光が、新菜の瞼をそっと叩いた。
目を開けると、やはりそこは白い部屋だった。
けれど、三日前とは何かが違っていた。
鼻をくすぐる、消毒液の匂い。
遠くで聞こえる、ワゴンが運ばれるガラガラという音。
自分の肺に、ゆっくりと空気が入り、胸が膨らむ感覚。
新菜は、ゆっくりと自分の掌を見た。
シーツを汚す汚れもない、誰かのために酷使されることもない、ただの、空っぽな十八歳の掌。
「……ああ」
初めて、新菜は自分を「かわいそう」だと思った。
この小さな手で、どれほどの重荷を背負ってきたのだろう。
どれほどの冷たさに耐えてきたのだろう。
まだ、立ち上がる力はない。
それでも、新菜の心の中に、一滴の澄んだ水が落ちたような、静かな波紋が広がっていた。
「……瀬戸さん」
名前を呼んでみる。
この白い部屋の境界線の向こう側に、自分を「何もしなくていい」と肯定してくれた人間がいる。その事実だけが、今の新菜をこの世に繋ぎ止める、唯一の錨(いかり)になっていた。
視界の端から端まで、すべてが白かった。
天井の点検口の四角いライン、無機質なシーツの折り目、遮光カーテンの隙間から漏れる頼りない午後の光。
精神科病棟の保護室に近いその部屋は、音さえも吸い込まれてしまうような静寂に包まれている。
新菜は、シーツの海に沈んでいた。
自分が生きているのか、それとも死んでここに置かれているのか、判別がつかない。喉を通るのは看護師に無理やり飲まされる水だけで、食べ物の匂いを想像するだけで内臓が裏返るような拒絶反応が起きた。
「……にいなさん」
ノックの音のあと、低い、けれど不思議と耳に障らない声がした。
新菜は首を動かすことさえ億劫で、ただ眼球だけを入口の方へ向けた。そこに立っていたのは、白衣を着ていない、くたびれた紺色のカーディガンを羽織った男だった。
「……だれ」
「担当カウンセラーの瀬戸です。今日は、話しに来たわけじゃない。ただ、顔を見に来ただけ」
瀬戸と名乗った男は、新菜のベッドから少し離れた丸椅子に腰を下ろした。彼は無理に目を合わせようとはせず、新菜が見つめているのと同じ、何もない白い壁を眺めている。
「……何か、しなきゃいけないの」
新菜の唇から、掠れた声がこぼれた。それは十八年間、彼女の脳内にこびりついていた呪詛だった。何かをしなければ、価値がない。おばあちゃんの体を拭かなければ。夕飯を作らなければ。両親の機嫌を損ねないように、立ち回らなければ。
「何か? たとえば?」
「おばあちゃんの、おむつを、替えなきゃ。……それから、お父さんの、靴を磨いて。お母さんの、肩を、揉んで……。……早く、起きなきゃ。私、サボってる……」
新菜の指先が、ガタガタと震えだす。シーツを握りしめる力が入り、爪が白く浮き出る。心拍数が上がり、耳の奥でドクドクと不快な音が鳴り響く。
「にいなさん。よく聞いて」
瀬戸が、静かに、けれど鋼のような強さを持って言った。
「ここは病院だ。おばあちゃんも、お父さんも、お母さんもいない。君が世話しなきゃいけない人は、この部屋には一人もいないんだ」
「でも、私がやらなきゃ……みんなが、困る。私が『優しい子』でいないと、家が、壊れる……」
「壊れればいい」
瀬戸の声が、新菜の思考を断ち切った。
新菜は、初めて瀬戸の顔をまともに見た。彼は、冷たいと言ってもいいほどの無表情で、けれど瞳の奥に深い静謐(せいひつ)を湛えて、新菜を見つめていた。
「君が支えなきゃ壊れるような場所は、もう家じゃない。ただの収容所だ。にいなさん。君はもう、誰の期待にも応えなくていい。誰の役にも立たなくていい。……ましてや、誰かのために笑う必要なんて、どこにもないんだ」
「そんなの……ダメだよ。そんなことしたら、私、……私は……」
「何もしない、ただの『新菜』になるだけだ。……いいかい、これは僕からの、最初の処方箋だ」
瀬戸は椅子を引き寄せ、新菜の目線に合わせて身を乗り出した。
「今日から、サボりなさい。徹底的にだ。食べたくなければ食べなくていい。話したくなければ黙っていればいい。……そして、眠りなさい。九年間、君が一度も取れなかった本当の休息を、今ここで取るんだ。君を責める人間は、この扉の向こうには一人も入れさせない」
――誰の期待にも、応えなくていい。
――何もしなくていい。
その言葉が、新菜の胸の奥にある、分厚い氷の壁に小さな亀裂を入れた。
九年間、ずっと張り詰めていた、今にも弾けそうだった鋼鉄の糸が、ふつりと切れた。
「……ほんとうに? 何も、しなくていいの? 怒られないの? お母さんに、ぼろ雑巾みたいだって、言われない?」
「言わせない。ここは僕の聖域だ」
瀬戸の言葉を聴き終える前に、新菜の視界が急激に歪んだ。
熱い液体が、堰を切ったように目尻から溢れ出し、白い枕を汚していく。
声にならなかった。ただ、ヒッ、ヒッ、という、小さな獣のような呼吸だけが、静かな部屋に漏れる。
新菜は、そのまま意識を失うように深い眠りに落ちた。
それからの三日間、新菜はほとんど目を覚まさなかった。
看護師が検温に来ても、点滴を取り替えに来ても、重い泥の底に沈んでいるような眠りから浮き上がってこなかった。
夢も見なかった。ただ、何も考えなくていい漆黒の安らぎが、彼女のボロボロになった神経を、ひたひたと浸し、修復していく。
四日目の朝、カーテンの隙間から差し込んだ光が、新菜の瞼をそっと叩いた。
目を開けると、やはりそこは白い部屋だった。
けれど、三日前とは何かが違っていた。
鼻をくすぐる、消毒液の匂い。
遠くで聞こえる、ワゴンが運ばれるガラガラという音。
自分の肺に、ゆっくりと空気が入り、胸が膨らむ感覚。
新菜は、ゆっくりと自分の掌を見た。
シーツを汚す汚れもない、誰かのために酷使されることもない、ただの、空っぽな十八歳の掌。
「……ああ」
初めて、新菜は自分を「かわいそう」だと思った。
この小さな手で、どれほどの重荷を背負ってきたのだろう。
どれほどの冷たさに耐えてきたのだろう。
まだ、立ち上がる力はない。
それでも、新菜の心の中に、一滴の澄んだ水が落ちたような、静かな波紋が広がっていた。
「……瀬戸さん」
名前を呼んでみる。
この白い部屋の境界線の向こう側に、自分を「何もしなくていい」と肯定してくれた人間がいる。その事実だけが、今の新菜をこの世に繋ぎ止める、唯一の錨(いかり)になっていた。
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