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第5話:呪縛の正体
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第5話:呪縛の正体
病室の窓の外では、細かな雨が世界を灰色に塗り潰していた。
新菜は、備え付けの丸椅子に浅く腰掛け、膝の上で自分の指をいじり続けている。指先のささくれを剥こうとする癖は、九歳の頃から変わらない。
「瀬戸さん。私、ずっと怖かったんです」
新菜の声は、雨音に紛れてしまいそうなほど細い。
対面に座る瀬戸は、手元のノートを開くこともなく、ただ新菜の言葉を待っている。
「私がちゃんとお粥を冷まさないと、おばあちゃんが火傷する。私がおむつを替えるのを一回でも忘れたら、おばあちゃんの皮膚が腐っちゃう。私が、私がちゃんとしないと、おばあちゃんが死んじゃう。……そう思って、九年間、心臓が止まりそうになりながら走ってきました」
瀬戸が静かに頷く。
「それは、九歳の子供が背負うには、あまりに重すぎる命の責任だね」
「でも、お母さんは言ったんです。『鏡の法則』だって」
新菜の脳裏に、磨き上げられたリビングの鏡の前で、優雅に髪を整える母の姿が浮かぶ。その鏡には、泥だらけで家事に追われる新菜と、美しく装う母が対照的に映っていた。
「『新菜、この世界はね、自分の心が映し出される鏡なのよ』って。お母さんが私を叱るのも、お父さんが私を見ないのも、おばあちゃんが病気なのも……。全部、新菜の考え方が後ろ向きで、生き方が変だから、不幸が映し出されるんだって。不幸なのは、あんたの心が汚れている証拠なんだよって。何度も、何度も……」
母の言葉を思い出すたび、鼻の奥にツンとした酸っぱい匂いが蘇る。
それは、自分を否定し続けた時に流した、行き場のない涙の匂いだ。
「だから、もっと感謝しなさい、もっと明るく笑いなさいって言われました。介護をさせてもらえることに喜びを感じなさい、それがあなたの修行なんだからって。……うまくできないのは、私の修行が足りないから。お父さんに怒鳴られるのは、私の徳が低いから。そう刷り込まれて……。私、自分が壊れているんだって、ずっと思ってたんです」
新菜の呼吸が浅くなる。肩が小刻みに揺れ、視界が歪んでいく。
「瀬戸さん。私がもっと良い子だったら、お母さんは私を愛してくれたんですか? 私の心が綺麗だったら、家族旅行に連れて行ってもらえたの? 鏡に映る私は……そんなに、醜かったんですか?」
絞り出すような問い。
瀬戸は椅子を少しだけ引き寄せ、新菜の目をまっすぐに見つめた。
「にいなさん。鏡の法則、か。……それは、自分を正当化したい大人が、子供を支配するために使う、最も卑怯な武器だよ」
「え……?」
「いいかい。鏡が歪んでいるんじゃない。鏡を覗き込んでいる側の『親』が、歪んだレンズを君に押し付けていただけだ。レンズに泥を塗っておいて、『ほら、お前の顔が汚れているぞ』と言い続けてきた。それは君の心の問題じゃない。彼らの『人間性の欠如』という、向こう側の問題なんだ」
「向こう側の……問題……?」
「そうだ。愛されないのは、君に愛される価値がないからじゃない。彼らに、愛する能力がなかった。ただ、それだけのことだ。九歳の子供を介護に縛り付け、その労働を『修行』などと言い換えるのは、哲学でも何でもない。ただの育児放棄であり、搾取だ。にいなさん、君は、汚れてなんていなかった」
瀬戸の声は、低く、力強かった。
その言葉が、新菜の体の中に溜まっていた「汚泥」のような記憶を、ゆっくりと押し流していく。
「私が……悪かったわけじゃ……なかったの?」
「君は、世界で一番ちゃんとしていたよ。九年間、一度も逃げずに命を繋いだ。それは奇跡のようなことだ。自分を責める必要なんて、一ミリもないんだよ」
新菜の目から、大粒の涙が溢れ出した。
これまでの涙は、自分を責めるための苦い液だった。けれど今の涙は、張り詰めていた神経をほどいていく、温かい雨のようだった。
「私……頑張ったよね。おばあちゃんの手、ずっと握ってた。……痛かったけど、頑張ったよ」
「ああ。君は本当によくやった」
新菜は声を上げて泣いた。
白い壁に、自分の泣き声が反響する。
母の「鏡の法則」という呪いが、瀬戸の言葉によって、音を立てて砕け散っていく。
窓の外の雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ、本物の光が差し込んでくる。
新菜は、初めて自分自身のことを「守らなきゃいけない一人の人間」として、おぼろげながら認識し始めていた。
「瀬戸さん。……私、もう一度、自分の目で見たいです。鏡じゃなくて、本当の世界を」
赤く腫れた目で笑おうとする新菜に、瀬戸はただ、優しく頷いた。
呪縛の正体を知った彼女の指先が、今、ようやく自分の人生の扉に触れようとしていた。
病室の窓の外では、細かな雨が世界を灰色に塗り潰していた。
新菜は、備え付けの丸椅子に浅く腰掛け、膝の上で自分の指をいじり続けている。指先のささくれを剥こうとする癖は、九歳の頃から変わらない。
「瀬戸さん。私、ずっと怖かったんです」
新菜の声は、雨音に紛れてしまいそうなほど細い。
対面に座る瀬戸は、手元のノートを開くこともなく、ただ新菜の言葉を待っている。
「私がちゃんとお粥を冷まさないと、おばあちゃんが火傷する。私がおむつを替えるのを一回でも忘れたら、おばあちゃんの皮膚が腐っちゃう。私が、私がちゃんとしないと、おばあちゃんが死んじゃう。……そう思って、九年間、心臓が止まりそうになりながら走ってきました」
瀬戸が静かに頷く。
「それは、九歳の子供が背負うには、あまりに重すぎる命の責任だね」
「でも、お母さんは言ったんです。『鏡の法則』だって」
新菜の脳裏に、磨き上げられたリビングの鏡の前で、優雅に髪を整える母の姿が浮かぶ。その鏡には、泥だらけで家事に追われる新菜と、美しく装う母が対照的に映っていた。
「『新菜、この世界はね、自分の心が映し出される鏡なのよ』って。お母さんが私を叱るのも、お父さんが私を見ないのも、おばあちゃんが病気なのも……。全部、新菜の考え方が後ろ向きで、生き方が変だから、不幸が映し出されるんだって。不幸なのは、あんたの心が汚れている証拠なんだよって。何度も、何度も……」
母の言葉を思い出すたび、鼻の奥にツンとした酸っぱい匂いが蘇る。
それは、自分を否定し続けた時に流した、行き場のない涙の匂いだ。
「だから、もっと感謝しなさい、もっと明るく笑いなさいって言われました。介護をさせてもらえることに喜びを感じなさい、それがあなたの修行なんだからって。……うまくできないのは、私の修行が足りないから。お父さんに怒鳴られるのは、私の徳が低いから。そう刷り込まれて……。私、自分が壊れているんだって、ずっと思ってたんです」
新菜の呼吸が浅くなる。肩が小刻みに揺れ、視界が歪んでいく。
「瀬戸さん。私がもっと良い子だったら、お母さんは私を愛してくれたんですか? 私の心が綺麗だったら、家族旅行に連れて行ってもらえたの? 鏡に映る私は……そんなに、醜かったんですか?」
絞り出すような問い。
瀬戸は椅子を少しだけ引き寄せ、新菜の目をまっすぐに見つめた。
「にいなさん。鏡の法則、か。……それは、自分を正当化したい大人が、子供を支配するために使う、最も卑怯な武器だよ」
「え……?」
「いいかい。鏡が歪んでいるんじゃない。鏡を覗き込んでいる側の『親』が、歪んだレンズを君に押し付けていただけだ。レンズに泥を塗っておいて、『ほら、お前の顔が汚れているぞ』と言い続けてきた。それは君の心の問題じゃない。彼らの『人間性の欠如』という、向こう側の問題なんだ」
「向こう側の……問題……?」
「そうだ。愛されないのは、君に愛される価値がないからじゃない。彼らに、愛する能力がなかった。ただ、それだけのことだ。九歳の子供を介護に縛り付け、その労働を『修行』などと言い換えるのは、哲学でも何でもない。ただの育児放棄であり、搾取だ。にいなさん、君は、汚れてなんていなかった」
瀬戸の声は、低く、力強かった。
その言葉が、新菜の体の中に溜まっていた「汚泥」のような記憶を、ゆっくりと押し流していく。
「私が……悪かったわけじゃ……なかったの?」
「君は、世界で一番ちゃんとしていたよ。九年間、一度も逃げずに命を繋いだ。それは奇跡のようなことだ。自分を責める必要なんて、一ミリもないんだよ」
新菜の目から、大粒の涙が溢れ出した。
これまでの涙は、自分を責めるための苦い液だった。けれど今の涙は、張り詰めていた神経をほどいていく、温かい雨のようだった。
「私……頑張ったよね。おばあちゃんの手、ずっと握ってた。……痛かったけど、頑張ったよ」
「ああ。君は本当によくやった」
新菜は声を上げて泣いた。
白い壁に、自分の泣き声が反響する。
母の「鏡の法則」という呪いが、瀬戸の言葉によって、音を立てて砕け散っていく。
窓の外の雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ、本物の光が差し込んでくる。
新菜は、初めて自分自身のことを「守らなきゃいけない一人の人間」として、おぼろげながら認識し始めていた。
「瀬戸さん。……私、もう一度、自分の目で見たいです。鏡じゃなくて、本当の世界を」
赤く腫れた目で笑おうとする新菜に、瀬戸はただ、優しく頷いた。
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