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第6話:毒親の襲来
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第6話:毒親の襲来
精神科病棟の空気は、いつもどこかひんやりとしていて、静かだ。
けれどその日の面会室は、入る前から「毒」の気配が満ちていた。扉の向こうから漏れてくるのは、母の鋭い笑い声と、父の苛立った靴音。
新菜は、隣を歩く瀬戸のカーディガンの袖を、子供のように掴んでいた。
「……大丈夫だよ、にいなさん。僕がここにいる。君は、自分の心を守ることだけを考えて」
瀬戸の低い声に、新菜は小さく頷き、重いドアを開けた。
「あら、やっと来たわね! 随分とお高いお姫様だこと。先生、この子もう大丈夫でしょ? いつまでこんな税金の無駄遣いみたいな部屋に寝かせておくつもり?」
母の第一声は、労りではなく、露骨な嫌悪だった。
今日の母は、祖母の遺産で買ったのであろう、趣味の悪いブランド物のバッグをテーブルにどんと置いている。部屋中に、きつすぎる香水の匂いが広がり、新菜の胃を不快にかき乱した。
「新菜。お前がいないせいで、家の中はゴミ溜めだ。飯も出てこないし、風呂の掃除もされてない。結菜も『お姉ちゃんのせいで生活が不便だ』って泣いてるんだぞ」
父がドカッと椅子に座り、苛立たしげに貧乏ゆすりを始めた。
彼らにとって新菜は、娘ではなく、壊れた家電か何かのように見えている。修理(入院)が長引いて不便だ、と文句を言いに来ただけなのだ。
「……お母さん。私、まだ体調が戻らなくて。夜も眠れないし……」
「眠れない? 贅沢言わないでよ! 眠れないなら掃除でもしてればいいじゃない。それより、あのお金、通帳はどこに隠したの? あなた名義になってるけど、あれは元々うちの家計を助けるためのものでしょ。さっさとハンコを出しなさい」
母が身を乗り出し、新菜の手首を掴んだ。
カサついた、冷たい指の感触。新菜の全身に、鳥肌が立つ。九年前、無理やり祖母の部屋に押し込められたあの日の恐怖が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……お金は、おばあちゃんが私のために、って」
「うるさい! 親に向かって口答えするな!」
父が机を叩いた。乾いた音が部屋に響き、新菜はビクッと肩を震わせる。
「お前の学費だか何だか知らんが、まずは親に恩を返すのが先だろうが。お前を育てるのにいくらかかったと思ってる。退院したらすぐに手続きをしろ。あと、リフォームの相談にも行くぞ。お前の部屋を潰して、俺の書斎にするんだ」
新菜の視界が、怒りと悲しみで白く点滅した。
九年間、一度も頭を撫でてくれなかった手。
一度も「ありがとう」と言わなかった唇。
彼らは今、新菜の心を踏みにじりながら、最後の一滴まで吸い尽くそうとしている。
「……お父さん」
新菜は、震える声で呼びかけた。
その瞳に、初めて「拒絶」の灯火が宿る。
「私、……二人の面倒は、一生見ない」
一瞬、部屋が凍りついた。
母が口を半開きにし、父の貧乏ゆすりが止まる。
「……は? 何言ったの、あんた」
「聞こえたでしょ。お父さんたちのご飯も作らない。掃除もしない。将来、病気になっても、介護もしない。お金も、一円もあげない。……私はもう、あなたたちの奴隷じゃない」
「この、恩知らずがッ!!」
父が立ち上がり、新菜に向かって腕を振り上げた。
新菜は反射的に目を閉じた。暴力の記憶が、黒い影となって迫る。
けれど、その腕が新菜に届くことはなかった。
「そこまでです」
瀬戸が、静かに父の腕を掴んでいた。
驚くほど冷徹な、けれど有無を言わせぬ圧力。
「何だお前は! 家族の問題だ、他人が口を出すな!」
「いいえ。ここは私の管理する治療の場です。そして、にいなさんへの威圧、金銭の要求、精神的な虐待。これらはすべて記録しました。……お父様、お母様。あなた方の行為は、患者の回復を著しく妨げる攻撃です」
瀬戸は新菜を自分の背後に隠し、冷ややかに告げた。
「病院側として、今回の面会を『虐待の継続』と判断しました。即刻、退室してください。今後、にいなさんへの接触は一切禁止します。住民票の閲覧制限を含め、法的な措置も進めます」
「何よそれ! 私たちは親なのよ! あんた、新菜を洗脳したのね!?」
母が金切り声を上げる。醜く歪んだ顔。香水の匂いが、腐敗臭のように感じられた。
警備員が駆けつけ、喚き散らす両親を部屋の外へと引きずり出していく。
「覚えてろよ新菜! 誰が助けてやるもんか! のたれ死んでも知らんからな!」
遠ざかっていく父の罵声。
扉が閉まり、再び静寂が戻った。
新菜は、その場に崩れ落ちた。
涙は出なかった。ただ、全身の力が抜け、指先がピリピリと痺れている。
けれど、胸の奥にあった、あの重い鉛のような塊が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいた。
「……言えた。私、言えたよ、瀬戸さん」
「ああ。よく言ったね。君の人生の、本当の第一歩だ」
瀬戸は、震える新菜の肩にそっと手を置いた。
それは、母の粘りつくような手とは違う、ただ「そこにいてくれる」だけの、温かい重みだった。
新菜は、窓の外を眺めた。
鉄格子のない窓から見える空は、驚くほど広かった。
自分を縛っていた「家族」という名の呪鎖。それが今、音を立てて砕け散ったのだ。
もう、顔色を伺わなくていい。
もう、誰かのために自分を削らなくていい。
「……私、生きてていいんだ」
初めて、心からそう思った。
新菜の戦いは、ここから始まる。けれどそれは、誰かに強いられた戦いではなく、自分の足で歩くための、自由への旅立ちだった。
精神科病棟の空気は、いつもどこかひんやりとしていて、静かだ。
けれどその日の面会室は、入る前から「毒」の気配が満ちていた。扉の向こうから漏れてくるのは、母の鋭い笑い声と、父の苛立った靴音。
新菜は、隣を歩く瀬戸のカーディガンの袖を、子供のように掴んでいた。
「……大丈夫だよ、にいなさん。僕がここにいる。君は、自分の心を守ることだけを考えて」
瀬戸の低い声に、新菜は小さく頷き、重いドアを開けた。
「あら、やっと来たわね! 随分とお高いお姫様だこと。先生、この子もう大丈夫でしょ? いつまでこんな税金の無駄遣いみたいな部屋に寝かせておくつもり?」
母の第一声は、労りではなく、露骨な嫌悪だった。
今日の母は、祖母の遺産で買ったのであろう、趣味の悪いブランド物のバッグをテーブルにどんと置いている。部屋中に、きつすぎる香水の匂いが広がり、新菜の胃を不快にかき乱した。
「新菜。お前がいないせいで、家の中はゴミ溜めだ。飯も出てこないし、風呂の掃除もされてない。結菜も『お姉ちゃんのせいで生活が不便だ』って泣いてるんだぞ」
父がドカッと椅子に座り、苛立たしげに貧乏ゆすりを始めた。
彼らにとって新菜は、娘ではなく、壊れた家電か何かのように見えている。修理(入院)が長引いて不便だ、と文句を言いに来ただけなのだ。
「……お母さん。私、まだ体調が戻らなくて。夜も眠れないし……」
「眠れない? 贅沢言わないでよ! 眠れないなら掃除でもしてればいいじゃない。それより、あのお金、通帳はどこに隠したの? あなた名義になってるけど、あれは元々うちの家計を助けるためのものでしょ。さっさとハンコを出しなさい」
母が身を乗り出し、新菜の手首を掴んだ。
カサついた、冷たい指の感触。新菜の全身に、鳥肌が立つ。九年前、無理やり祖母の部屋に押し込められたあの日の恐怖が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……お金は、おばあちゃんが私のために、って」
「うるさい! 親に向かって口答えするな!」
父が机を叩いた。乾いた音が部屋に響き、新菜はビクッと肩を震わせる。
「お前の学費だか何だか知らんが、まずは親に恩を返すのが先だろうが。お前を育てるのにいくらかかったと思ってる。退院したらすぐに手続きをしろ。あと、リフォームの相談にも行くぞ。お前の部屋を潰して、俺の書斎にするんだ」
新菜の視界が、怒りと悲しみで白く点滅した。
九年間、一度も頭を撫でてくれなかった手。
一度も「ありがとう」と言わなかった唇。
彼らは今、新菜の心を踏みにじりながら、最後の一滴まで吸い尽くそうとしている。
「……お父さん」
新菜は、震える声で呼びかけた。
その瞳に、初めて「拒絶」の灯火が宿る。
「私、……二人の面倒は、一生見ない」
一瞬、部屋が凍りついた。
母が口を半開きにし、父の貧乏ゆすりが止まる。
「……は? 何言ったの、あんた」
「聞こえたでしょ。お父さんたちのご飯も作らない。掃除もしない。将来、病気になっても、介護もしない。お金も、一円もあげない。……私はもう、あなたたちの奴隷じゃない」
「この、恩知らずがッ!!」
父が立ち上がり、新菜に向かって腕を振り上げた。
新菜は反射的に目を閉じた。暴力の記憶が、黒い影となって迫る。
けれど、その腕が新菜に届くことはなかった。
「そこまでです」
瀬戸が、静かに父の腕を掴んでいた。
驚くほど冷徹な、けれど有無を言わせぬ圧力。
「何だお前は! 家族の問題だ、他人が口を出すな!」
「いいえ。ここは私の管理する治療の場です。そして、にいなさんへの威圧、金銭の要求、精神的な虐待。これらはすべて記録しました。……お父様、お母様。あなた方の行為は、患者の回復を著しく妨げる攻撃です」
瀬戸は新菜を自分の背後に隠し、冷ややかに告げた。
「病院側として、今回の面会を『虐待の継続』と判断しました。即刻、退室してください。今後、にいなさんへの接触は一切禁止します。住民票の閲覧制限を含め、法的な措置も進めます」
「何よそれ! 私たちは親なのよ! あんた、新菜を洗脳したのね!?」
母が金切り声を上げる。醜く歪んだ顔。香水の匂いが、腐敗臭のように感じられた。
警備員が駆けつけ、喚き散らす両親を部屋の外へと引きずり出していく。
「覚えてろよ新菜! 誰が助けてやるもんか! のたれ死んでも知らんからな!」
遠ざかっていく父の罵声。
扉が閉まり、再び静寂が戻った。
新菜は、その場に崩れ落ちた。
涙は出なかった。ただ、全身の力が抜け、指先がピリピリと痺れている。
けれど、胸の奥にあった、あの重い鉛のような塊が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいた。
「……言えた。私、言えたよ、瀬戸さん」
「ああ。よく言ったね。君の人生の、本当の第一歩だ」
瀬戸は、震える新菜の肩にそっと手を置いた。
それは、母の粘りつくような手とは違う、ただ「そこにいてくれる」だけの、温かい重みだった。
新菜は、窓の外を眺めた。
鉄格子のない窓から見える空は、驚くほど広かった。
自分を縛っていた「家族」という名の呪鎖。それが今、音を立てて砕け散ったのだ。
もう、顔色を伺わなくていい。
もう、誰かのために自分を削らなくていい。
「……私、生きてていいんだ」
初めて、心からそう思った。
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