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第7話:学びへの渇望
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第7話:学びへの渇望
病棟の図書室は、古い紙の匂いと、微かな日向の匂いが混ざり合っていた。
両親との面会から数週間。新菜は、瀬戸から「もし気が向いたら、これを整理するのを手伝ってくれないか」と頼まれた数冊の専門書を抱えていた。
「心理学……社会福祉概論……」
表紙の文字をなぞる。かつて、新菜にとって「介護」や「福祉」という言葉は、自分を縛り付け、自由を奪い、指先をあかぎれだらけにする呪文でしかなかった。
けれど、図書室の机に広げた本の中に記されていたのは、彼女が知っている泥臭い苦役とは違う、整然とした「知恵」だった。
「どうかな、にいなさん。少しは面白そうなことが書いてある?」
いつの間にか後ろに立っていた瀬戸が、缶コーヒーを二つ、机に置いた。パキッという小気味いい音とともに、香ばしい苦い香りが鼻をくすぐる。
「……不思議なんです。ここに書いてある『セルフケア』とか『境界線』っていう言葉……。私、あんなに毎日おばあちゃんの世話をしてきたのに、こんな言葉、ひとつも知りませんでした」
新菜は、本の一節を指でなぞった。
「私、……介護って、ただ我慢することだと思ってた。自分がぼろ雑巾になればなるほど、それが『正解』なんだって。でも、この本には『支援者が倒れては意味がない』って書いてある。自分を大切にすることが、最初の仕事なんだって。……そんなの、誰も教えてくれなかった」
新菜の声が、少しだけ震えた。
九年間、彼女がやってきたのは「介護」ではなく、ただの「自己犠牲」だった。それを学問として、客観的な技術として見つめ直したとき、視界を覆っていた霧が晴れていくような感覚を覚えた。
「にいなさん。君はもう、現場を知っている。誰よりも深く、痛みを知っている。それは、どんな教科書を読み耽るよりも得難い、君だけの『土台』なんだよ」
「私だけの……土台……」
「そう。君には才能がある。瀬戸際で踏みとどまり、命と向き合ってきた才能だ。それを『搾取』の道具にさせるのは、社会の損失だと僕は思う」
瀬戸は、真剣な眼差しで新菜を見つめた。
新菜は、思わず息を呑んだ。才能。そんな言葉、自分には一生縁がないと思っていた。ただ言われたことを、叱られないようにこなすだけの、空っぽな自分だと思っていた。
「瀬戸さん……私、もっと知りたいです。どうして人は、あんなに優しかったおばあちゃんが、あんな風に変わってしまうのか。どうして私の両親は、あんな風にしか人を愛せないのか。それを知るための力が、欲しい」
新菜は、拳をぎゅっと握りしめた。
掌に残る、あかぎれの痕。それは、かつては奴隷の印のように見えたけれど、今は「戦ってきた証」のように思えた。
「……でも、私。高校も休みがちだったし、もう十八歳だし……。こんなボロボロな私でも、大学にいっていいのかな。勉強なんて、してもいいのかな」
不安が、冷たい水のように胸に広がる。
母の「あんたには地味な仕事が向いてるのよ」という呪いの声が、耳の奥で微かに再生される。
「もちろんだ」
瀬戸は、迷いなく力強く頷いた。
「年齢なんて関係ない。ましてや、君には君の人生を守る権利がある。おばあ様が遺してくれたあの手帳、覚えているかい?」
新菜は、病室の引き出しに大切にしまってある、あの古びた手帳を思い出した。
『自分のために生きなさい』
あの言葉は、単なる励ましではなかった。未来への入場券だったのだ。
「あのお金は、君の血と汗の結晶だ。誰に遠慮する必要がある? 君の人生を豊かにするために、君自身が使い道を決めればいい。……にいなさん。君が大学に行って、いつか僕の同業者や、介護のスペシャリストになったら。それは、君を支配しようとした人たちに対する、最高の『勝利』になると思わないかい?」
勝利。
その言葉が、新菜の心に鮮やかな火を灯した。
やり返すことでも、論破することでもない。
自分自身が幸せになり、プロとして自立し、誰の助けも借りずに胸を張って生きること。それが、毒親から最も遠い場所へ行く方法なのだ。
「……私、行きたいです。大学。福祉の大学に行って、ちゃんと勉強して、資格を取って……。今度は自分の意志で、誰かの支えになりたい」
新菜の瞳に、九年間失われていた「希望」という名の光が、はっきりと宿った。
窓の外から差し込む光が、机の上に広げた本の白いページを、眩しいほどに照らしている。
「いい顔だ。よし、まずは願書を取り寄せるところから始めようか」
瀬戸の言葉に、新菜は初めて、心の底から「はい!」と返事をした。
あんなに重かった専門書の重みが、今は、自分の未来を支える確かな手応えに変わっていた。
祖母が遺したお金で、教科書を買おう。
新しいペンを買おう。
そして、まだ見ぬ自分の人生を買おう。
新菜は、深く、深く息を吸い込んだ。
肺に満ちた空気は、もう病院の匂いではなく、新しい春の予感を含んだ、自由の匂いがした。
病棟の図書室は、古い紙の匂いと、微かな日向の匂いが混ざり合っていた。
両親との面会から数週間。新菜は、瀬戸から「もし気が向いたら、これを整理するのを手伝ってくれないか」と頼まれた数冊の専門書を抱えていた。
「心理学……社会福祉概論……」
表紙の文字をなぞる。かつて、新菜にとって「介護」や「福祉」という言葉は、自分を縛り付け、自由を奪い、指先をあかぎれだらけにする呪文でしかなかった。
けれど、図書室の机に広げた本の中に記されていたのは、彼女が知っている泥臭い苦役とは違う、整然とした「知恵」だった。
「どうかな、にいなさん。少しは面白そうなことが書いてある?」
いつの間にか後ろに立っていた瀬戸が、缶コーヒーを二つ、机に置いた。パキッという小気味いい音とともに、香ばしい苦い香りが鼻をくすぐる。
「……不思議なんです。ここに書いてある『セルフケア』とか『境界線』っていう言葉……。私、あんなに毎日おばあちゃんの世話をしてきたのに、こんな言葉、ひとつも知りませんでした」
新菜は、本の一節を指でなぞった。
「私、……介護って、ただ我慢することだと思ってた。自分がぼろ雑巾になればなるほど、それが『正解』なんだって。でも、この本には『支援者が倒れては意味がない』って書いてある。自分を大切にすることが、最初の仕事なんだって。……そんなの、誰も教えてくれなかった」
新菜の声が、少しだけ震えた。
九年間、彼女がやってきたのは「介護」ではなく、ただの「自己犠牲」だった。それを学問として、客観的な技術として見つめ直したとき、視界を覆っていた霧が晴れていくような感覚を覚えた。
「にいなさん。君はもう、現場を知っている。誰よりも深く、痛みを知っている。それは、どんな教科書を読み耽るよりも得難い、君だけの『土台』なんだよ」
「私だけの……土台……」
「そう。君には才能がある。瀬戸際で踏みとどまり、命と向き合ってきた才能だ。それを『搾取』の道具にさせるのは、社会の損失だと僕は思う」
瀬戸は、真剣な眼差しで新菜を見つめた。
新菜は、思わず息を呑んだ。才能。そんな言葉、自分には一生縁がないと思っていた。ただ言われたことを、叱られないようにこなすだけの、空っぽな自分だと思っていた。
「瀬戸さん……私、もっと知りたいです。どうして人は、あんなに優しかったおばあちゃんが、あんな風に変わってしまうのか。どうして私の両親は、あんな風にしか人を愛せないのか。それを知るための力が、欲しい」
新菜は、拳をぎゅっと握りしめた。
掌に残る、あかぎれの痕。それは、かつては奴隷の印のように見えたけれど、今は「戦ってきた証」のように思えた。
「……でも、私。高校も休みがちだったし、もう十八歳だし……。こんなボロボロな私でも、大学にいっていいのかな。勉強なんて、してもいいのかな」
不安が、冷たい水のように胸に広がる。
母の「あんたには地味な仕事が向いてるのよ」という呪いの声が、耳の奥で微かに再生される。
「もちろんだ」
瀬戸は、迷いなく力強く頷いた。
「年齢なんて関係ない。ましてや、君には君の人生を守る権利がある。おばあ様が遺してくれたあの手帳、覚えているかい?」
新菜は、病室の引き出しに大切にしまってある、あの古びた手帳を思い出した。
『自分のために生きなさい』
あの言葉は、単なる励ましではなかった。未来への入場券だったのだ。
「あのお金は、君の血と汗の結晶だ。誰に遠慮する必要がある? 君の人生を豊かにするために、君自身が使い道を決めればいい。……にいなさん。君が大学に行って、いつか僕の同業者や、介護のスペシャリストになったら。それは、君を支配しようとした人たちに対する、最高の『勝利』になると思わないかい?」
勝利。
その言葉が、新菜の心に鮮やかな火を灯した。
やり返すことでも、論破することでもない。
自分自身が幸せになり、プロとして自立し、誰の助けも借りずに胸を張って生きること。それが、毒親から最も遠い場所へ行く方法なのだ。
「……私、行きたいです。大学。福祉の大学に行って、ちゃんと勉強して、資格を取って……。今度は自分の意志で、誰かの支えになりたい」
新菜の瞳に、九年間失われていた「希望」という名の光が、はっきりと宿った。
窓の外から差し込む光が、机の上に広げた本の白いページを、眩しいほどに照らしている。
「いい顔だ。よし、まずは願書を取り寄せるところから始めようか」
瀬戸の言葉に、新菜は初めて、心の底から「はい!」と返事をした。
あんなに重かった専門書の重みが、今は、自分の未来を支える確かな手応えに変わっていた。
祖母が遺したお金で、教科書を買おう。
新しいペンを買おう。
そして、まだ見ぬ自分の人生を買おう。
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