聖域の解放 〜ヤングケアラー新菜の再出発

かおるこ

文字の大きさ
10 / 13

第9話:キャンパスの光

しおりを挟む
第9話:キャンパスの光

 春の陽光が、大学の真新しい講義棟の窓を白く焼き、廊下にはワックスと埃が混ざった独特の匂いが漂っていた。
 新菜は、少し硬いキャンバス地のリュックを背負い、大講義室の隅の席に身を沈めた。周囲を見渡せば、流行の服に身を包み、昨日見たテレビ番組やサークルの勧誘について楽しげに語らう同級生たちがいる。

 彼女たちとは、見えている世界が違う。
 新菜は自分の掌を見つめた。あかぎれは消え、白くなったけれど、重い体を支え続けた指の節は、どこか武骨なままだ。

「――では、本日の『老年福祉論』を始めます。今日は、認知症患者への『声かけ』と、その心理的境界線について。教科書の四十二ページを開いてください」

 教壇に立つ教授の、乾いたチョークの音が室内に響く。
 新菜はペンを握り、教科書の文字を目で追った。周囲の学生たちが「ふーん」と無関心そうにページをめくる中、新菜の胸には激しい動悸のような衝撃が走っていた。

『不適切な声かけは、被介護者の自尊心を傷つけ、周辺症状(BPSD)を悪化させる。介護者は自身の感情をコントロールし、専門的距離を保たなければならない』

(これ……、私、知ってる)

 教科書に記された無機質な理論。それは、新菜がかつて、おばあちゃんの部屋で独りきり、血を吐くような思いで手探りで見つけ出してきた「答え」そのものだった。
 おばあちゃんが夜中に叫んだとき。無理に黙らせようとすればするほど、彼女の目は恐怖に染まった。けれど、ただ隣に座り、彼女の呼吸に合わせて背中を撫でたとき、その震えが止まったこと。

「ねえ、今のところ難しくない? 専門的距離って何? 家族なんだから適当に優しくすればいいじゃんね」

 隣の席の女子学生が、くしゃりとあくびをしながら友達に囁いた。
 新菜は、思わず口を開いていた。

「……適当じゃ、壊れちゃうんだよ」

「え?」

 女子学生が驚いて新菜を見た。新菜は一瞬、しまった、と俯きかけたが、瀬戸の「それは君だけの土台だ」という言葉を思い出し、まっすぐに彼女を見返した。

「家族だからこそ、距離が必要なの。自分を守る壁を作らないと、相手の苦しみに飲み込まれて、共倒れになっちゃう。……優しさだけじゃ、命は支えられないんだよ」

 新菜の言葉には、経験という名の重い体温が宿っていた。
 女子学生は、新菜の瞳に宿る真剣さに圧倒されたように、「……そっか。なんか、新菜さんってすごいね」と小さく呟き、再びノートに向き直った。

 授業が終わったあと、新菜は教授の元へ向かった。

「先生、質問があります。教科書にある『バーンアウト(燃え尽き)の予兆』についてですが、もし家庭内でそれが起きた場合、外部の支援が届かない閉鎖環境では、どうやって救いを出せばいいのでしょうか」

 教授は眼鏡の奥の目を細め、新菜をじっと見た。
「……君は、非常によく核心を突くね。それは現在の福祉が抱える最大のブラックボックスだ。新菜さん、と言ったかな。君のレポート、楽しみにしているよ。現場を知っている人間の言葉には、力があるからね」

 教授にかけられた言葉が、新菜の心に温かな光を灯した。
 九年間、彼女が受けてきた仕打ちは「搾取」だった。けれど、その地獄のような日々で培われた、わずかな変化も見逃さない観察眼、老いた人の呼吸を読む力、そして極限状態でも手を動かし続ける忍耐力。
 それらは今、泥の中から拾い上げられた宝石のように、彼女の専門性として輝き始めていた。

「私……無駄じゃなかった」

 キャンパスの中庭で、新菜は一人、青空を見上げた。
 おむつを替えた時の手の震えも、両親に罵倒された時の胃の痛みも、すべてが「プロフェッショナル」への階段の一段一段だったのだと思えたとき、初めて過去の自分と握手ができた気がした。

 ふと、スマホが震える。
 瀬戸からのメッセージだった。
『新菜さん、調子はどうだい? 勉強は君を裏切らない。君の傷は、いつか誰かの痛みを癒やすための処方箋になるよ』

 新菜は、込み上げる涙を堪えて、力強く返信を打ち込んだ。
『はい。私、ここに来て良かったです。……おばあちゃんに、教えてあげたい。私、今、すごく楽しいよって』

 学食のカレーの匂い、学生たちの騒がしい笑い声。
 そのすべてが、新菜を「生きている人間」として祝福しているように感じられた。
 かつての「ぼろ雑巾」は、もうどこにもいない。
 新菜は、教科書が詰まった重いリュックを背負い直し、次なる学びの場へと、軽やかな足取りで踏み出した。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~

真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

【完結】「私は善意に殺された」

まほりろ
恋愛
筆頭公爵家の娘である私が、母親は身分が低い王太子殿下の後ろ盾になるため、彼の婚約者になるのは自然な流れだった。 誰もが私が王太子妃になると信じて疑わなかった。 私も殿下と婚約してから一度も、彼との結婚を疑ったことはない。 だが殿下が病に倒れ、その治療のため異世界から聖女が召喚され二人が愛し合ったことで……全ての運命が狂い出す。 どなたにも悪意はなかった……私が不運な星の下に生まれた……ただそれだけ。 ※無断転載を禁止します。 ※朗読動画の無断配信も禁止します。 ※他サイトにも投稿中。 ※表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。 「Copyright(C)2022-九頭竜坂まほろん」 ※小説家になろうにて2022年11月19日昼、日間異世界恋愛ランキング38位、総合59位まで上がった作品です!

処理中です...