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第10話:介護のプロとして
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第10話:介護のプロとして
朝の光が、介護老人福祉施設「ひだまりの家」の清潔な廊下を白く洗い流していた。
わずかに漂う微香性の消毒液と、朝食の味噌汁の温かな匂い。新菜は、紺色のユニフォームの襟を正し、ユニットの詰所に立った。
「新菜リーダー、おはようございます! 302号室の佐藤さん、昨夜は少し寝付けなかったみたいですが、今朝は落ち着いてトーストを食べていらっしゃいます」
後輩スタッフの元気な声に、新菜は柔らかく微笑む。
「ありがとう。佐藤さんは気圧の変化に敏感だから、今日は湿度に気をつけて加湿器を調整してあげて。あと、無理に食べさせなくていいから、お茶の温度だけ少し高めにして差し上げてね」
「了解です!」
新菜の指示は的確で、かつ、入居者一人ひとりの「小さな揺らぎ」を掬い取る優しさがあった。
九年前、絶望の中で雑巾を絞っていたあの手は、今や国家資格という確かな証を携え、何人もの部下を導く「プロ」の手になっていた。
かつての彼女にとって、介護は「強制」であり、「搾取」の道具だった。
けれど、自らの意志で選び直し、学問として、技術として身につけた今の介護は、全く別の顔をしている。
それは、失われゆく尊厳を最期まで守り抜くという、高度に知的な「誇り」だった。
---
「……にいなさん、ちょっといいかな」
休憩室で冷めたコーヒーを口にしていた時、施設の生活相談員が、少し言いにくそうな顔をして近づいてきた。新菜はカップを置き、静かに背筋を伸ばした。
「実はね、君の地元の方の相談員から連絡があったんだ。……あのご両親のことだよ」
その言葉を聞いた瞬間、新菜の心に一瞬だけ、古い傷跡が疼くような感覚があった。けれど、それはさざ波程度で、すぐに静まった。
「お父様が脳梗塞で倒れられたそうだ。一命は取り留めたけれど、麻痺が残って重度の要介護状態でね。お母様の方も、多額の借金があるとかで、家を手放すことになったらしい。結菜さんも、自分の生活で精一杯だと、一切の援助を拒否しているそうで……」
相談員は、新菜の表情を窺うように言葉を継いだ。
「役所の方も、扶養義務の確認で君を探しているみたいだ。どうする? 連絡先を教えてもいいし、一度、面会に行ってみるという手もあるけれど」
新菜は、窓の外を眺めた。
数年前なら、この知らせを聞いただけで過呼吸になっていたかもしれない。あるいは、激しい復讐心に駆られていただろう。
けれど、今の彼女の胸にあるのは、驚くほどの「静寂」だった。
「……いいえ」
新菜は、穏やかな、けれど一切の迷いがない声で答えた。
「連絡先は教えないでください。扶養照会についても、過去の虐待の事実を証明する書類を役所に提出してあります。私は、あの人たちを助ける義務はありません」
「でも、お父様はかなり状態が悪いと聞いているよ。君はこれだけ立派なプロになったんだ。彼らもきっと、今なら君のありがたみが……」
「相談員さん」
新菜は、静かに話を遮った。
「私がプロになったのは、彼らのためではありません。私自身の人生を取り戻すためです。……彼らが今、苦しんでいるのだとしたら、それは彼らが過去に蒔いた種を、自分で刈り取っているだけのこと。私が介入して、その種を代わりに刈ってあげることは、彼らの人生を尊重することにもなりません」
それは、冷淡な拒絶ではなく、完璧な「境界線」だった。
愛さず、恨まず、ただ、別の世界の住人として、その因果を切り離す。
新菜は立ち上がり、空になったカップを洗った。
「私の人生に、彼らの居場所はもう一ミリも残っていないんです」
---
詰所に戻ると、一人の入居者の女性が車椅子で通りかかった。認知症が進み、時折、自分の名前さえ忘れてしまう女性だ。
「あら……あなた、綺麗な顔をしてるわね。私の孫に似ている気がするわ」
女性が、震える手で新菜の腕に触れた。
新菜はその手を、プロとしての確かな温もりで包み込んだ。
それはかつて、祖母の看取りで捧げたのと同じ、けれど今は新菜自身の意志で差し出した「慈しみ」だった。
「ありがとうございます。今日は天気がいいですよ。お庭の花を見に行きましょうか」
女性の車椅子を押し、中庭へと向かう。
ふと、新菜は足を止め、高く晴れ渡った空を見上げた。
(お父さんが倒れた。家がなくなった。お母さんが泣いている)
頭の中で、その事実を反芻してみる。
風が吹き抜け、新菜の髪を揺らした。
一瞬だけ、遠い記憶の中の「九歳の自分」が、空の向こうへ溶けていくのが見えた気がした。
「――私の人生には、もう関係のないこと」
新菜は、小さく、けれど晴れやかな微笑みを浮かべた。
復讐でもなく、許しでもない。
ただ、自分を幸せにすること。それが、彼女がたどり着いた最高の答えだった。
「さあ、行きましょう。今日はお花が、とても綺麗に咲いていますから」
新菜は、確かな足取りで一歩を踏み出した。
その真っ白な靴は、もう二度と、他人の泥を被ることはない。
彼女はもう、自らの足で、自らの人生を、一歩ずつ誇り高く歩き続けているのだから。
(完)
朝の光が、介護老人福祉施設「ひだまりの家」の清潔な廊下を白く洗い流していた。
わずかに漂う微香性の消毒液と、朝食の味噌汁の温かな匂い。新菜は、紺色のユニフォームの襟を正し、ユニットの詰所に立った。
「新菜リーダー、おはようございます! 302号室の佐藤さん、昨夜は少し寝付けなかったみたいですが、今朝は落ち着いてトーストを食べていらっしゃいます」
後輩スタッフの元気な声に、新菜は柔らかく微笑む。
「ありがとう。佐藤さんは気圧の変化に敏感だから、今日は湿度に気をつけて加湿器を調整してあげて。あと、無理に食べさせなくていいから、お茶の温度だけ少し高めにして差し上げてね」
「了解です!」
新菜の指示は的確で、かつ、入居者一人ひとりの「小さな揺らぎ」を掬い取る優しさがあった。
九年前、絶望の中で雑巾を絞っていたあの手は、今や国家資格という確かな証を携え、何人もの部下を導く「プロ」の手になっていた。
かつての彼女にとって、介護は「強制」であり、「搾取」の道具だった。
けれど、自らの意志で選び直し、学問として、技術として身につけた今の介護は、全く別の顔をしている。
それは、失われゆく尊厳を最期まで守り抜くという、高度に知的な「誇り」だった。
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「……にいなさん、ちょっといいかな」
休憩室で冷めたコーヒーを口にしていた時、施設の生活相談員が、少し言いにくそうな顔をして近づいてきた。新菜はカップを置き、静かに背筋を伸ばした。
「実はね、君の地元の方の相談員から連絡があったんだ。……あのご両親のことだよ」
その言葉を聞いた瞬間、新菜の心に一瞬だけ、古い傷跡が疼くような感覚があった。けれど、それはさざ波程度で、すぐに静まった。
「お父様が脳梗塞で倒れられたそうだ。一命は取り留めたけれど、麻痺が残って重度の要介護状態でね。お母様の方も、多額の借金があるとかで、家を手放すことになったらしい。結菜さんも、自分の生活で精一杯だと、一切の援助を拒否しているそうで……」
相談員は、新菜の表情を窺うように言葉を継いだ。
「役所の方も、扶養義務の確認で君を探しているみたいだ。どうする? 連絡先を教えてもいいし、一度、面会に行ってみるという手もあるけれど」
新菜は、窓の外を眺めた。
数年前なら、この知らせを聞いただけで過呼吸になっていたかもしれない。あるいは、激しい復讐心に駆られていただろう。
けれど、今の彼女の胸にあるのは、驚くほどの「静寂」だった。
「……いいえ」
新菜は、穏やかな、けれど一切の迷いがない声で答えた。
「連絡先は教えないでください。扶養照会についても、過去の虐待の事実を証明する書類を役所に提出してあります。私は、あの人たちを助ける義務はありません」
「でも、お父様はかなり状態が悪いと聞いているよ。君はこれだけ立派なプロになったんだ。彼らもきっと、今なら君のありがたみが……」
「相談員さん」
新菜は、静かに話を遮った。
「私がプロになったのは、彼らのためではありません。私自身の人生を取り戻すためです。……彼らが今、苦しんでいるのだとしたら、それは彼らが過去に蒔いた種を、自分で刈り取っているだけのこと。私が介入して、その種を代わりに刈ってあげることは、彼らの人生を尊重することにもなりません」
それは、冷淡な拒絶ではなく、完璧な「境界線」だった。
愛さず、恨まず、ただ、別の世界の住人として、その因果を切り離す。
新菜は立ち上がり、空になったカップを洗った。
「私の人生に、彼らの居場所はもう一ミリも残っていないんです」
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詰所に戻ると、一人の入居者の女性が車椅子で通りかかった。認知症が進み、時折、自分の名前さえ忘れてしまう女性だ。
「あら……あなた、綺麗な顔をしてるわね。私の孫に似ている気がするわ」
女性が、震える手で新菜の腕に触れた。
新菜はその手を、プロとしての確かな温もりで包み込んだ。
それはかつて、祖母の看取りで捧げたのと同じ、けれど今は新菜自身の意志で差し出した「慈しみ」だった。
「ありがとうございます。今日は天気がいいですよ。お庭の花を見に行きましょうか」
女性の車椅子を押し、中庭へと向かう。
ふと、新菜は足を止め、高く晴れ渡った空を見上げた。
(お父さんが倒れた。家がなくなった。お母さんが泣いている)
頭の中で、その事実を反芻してみる。
風が吹き抜け、新菜の髪を揺らした。
一瞬だけ、遠い記憶の中の「九歳の自分」が、空の向こうへ溶けていくのが見えた気がした。
「――私の人生には、もう関係のないこと」
新菜は、小さく、けれど晴れやかな微笑みを浮かべた。
復讐でもなく、許しでもない。
ただ、自分を幸せにすること。それが、彼女がたどり着いた最高の答えだった。
「さあ、行きましょう。今日はお花が、とても綺麗に咲いていますから」
新菜は、確かな足取りで一歩を踏み出した。
その真っ白な靴は、もう二度と、他人の泥を被ることはない。
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