『春、わたしはわたしを始める』

かおるこ

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第5話「革靴の手入れ」

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「革靴の手入れ」

「うわ……」

玄関のたたきに置いたローファーを見て、陽菜は思わず声を漏らした。

つま先に細かい傷。
白っぽく乾いた革。
雨の跡が、まだらに残っている。

「ごめんね」

誰に言うでもなく、しゃがみ込む。

革に触れると、ひんやりしていて、少しざらついている。
一日中歩き回った重さが、そのまま染み込んでいるみたいだった。

「……ちゃんとしよ」

部屋から小さな箱を持ってくる。
昨日、父の棚から借りたシューケアセット。

ブラシ。
クリーム。
柔らかい布。

ふたを開けた瞬間、独特の匂いがふわっと立ち上る。
油と革と、少し甘いワックスの香り。

「懐かし」

後ろから声がした。

「え」

振り向くと、父がキッチンから顔を出している。

「それ、俺のだろ」

「借りた」

「ちゃんと返せよ」

ぶっきらぼうに言いながら、父は近づいてくる。

「自分でやるのか?」

「うん」

「ほう」

父は陽菜の向かいにしゃがむ。
革靴を手に取り、くるりと光にかざす。

「雨の日、履いたな?」

「うん……ダンス部の帰り」

「乾かした?」

「え、玄関に置いただけ」

「だめだな」

父は苦笑する。

「革はな、ちゃんと乾かしてやらないと拗ねる」

「拗ねる?」

「ひび割れる」

陽菜は思わず靴を見つめる。

(拗ねるって……)

ブラシを手に取る。
毛先がざらりと硬い。

「こうやるんだ」

父が実演する。
シャッ、シャッ、と乾いた音が玄関に響く。

ほこりが舞う。
光の中で小さくきらめく。

「そんなに強く?」

「優しく。でも遠慮しすぎるな」

「難しい」

「人と一緒だ」

「なにそれ」

笑いながら、陽菜も真似する。

シャッ、シャッ。
一定のリズム。

最初はぎこちなかった手つきが、少しずつ滑らかになる。

ほこりが落ちていくたび、
靴の黒が深くなる。

「おお」

「なに」

「ちょっと顔出てきた」

「顔?」

「本来の色」

陽菜はつま先をじっと見る。
確かに、さっきより艶が戻っている。

(なんか……嬉しい)

布にクリームを少量とる。
指先に伝わる、やわらかな油分。

「つけすぎるなよ」

「分かってる」

そっと円を描くように塗る。

革がしっとりと光を吸い込む。
指に伝わる滑らかな感触。

「……気持ちいい」

「だろ?」

父が笑う。

「ちゃんと手をかけると応えてくる」

「靴なのに?」

「靴だからだ」

静かな玄関に、布で磨く音が続く。
キュッ、キュッ、と小さな摩擦音。

窓の外から、夜の冷たい空気が流れ込む。
どこかで犬が吠える声。

「陽菜」

「ん?」

「最近、元気か?」

突然の質問に、手が止まる。

「元気だよ」

「ほんとか」

父は靴を見つめたまま言う。

「無理してないか」

胸が、少しだけざわつく。

「なんで」

「顔がな」

「なにそれ」

「ちょっと疲れてる」

布を動かす。
キュッ、キュッ。

「……バレるんだ」

「まあな」

陽菜は靴に映る自分の顔を見る。
ぼんやりだけど、確かに映っている。

「頑張ってるよ」

ぽつりと言う。

「それは知ってる」

「変わりたいから」

「うん」

父はうなずく。

「でもな」

クリームの蓋を閉めながら続ける。

「無理やり曲げた革は、あとでひび割れる」

その言葉が、胸に落ちる。

「……靴の話?」

「半分はな」

陽菜は少し笑う。

「ちゃんと休ませろよ。自分も、靴も」

「うん」

もう一度、布で磨く。

今度は、さっきより丁寧に。
焦らず、急がず。

つま先に、柔らかな光が宿る。

「わ」

思わず声が出る。

黒が、深い。
夜みたいに静かで、強い。

「いいだろ」

父が満足そうに言う。

「うん……すごい」

指でそっと触れる。
しっとりして、なめらか。

さっきまでの乾いた感じは消えている。

「明日、気分違うぞ」

「ほんと?」

「足元が整うと、姿勢も変わる」

陽菜は、磨き上げた靴を並べる。

左右ぴたりと揃う。

その形が、なんだか頼もしい。

「ありがとう」

「俺、何もしてない」

「ちょっとだけ」

父は立ち上がる。

「返すときはちゃんと箱に戻せよ」

「はーい」

玄関の電気を少し落とす。
柔らかな光の中で、靴は静かに光っている。

陽菜は思う。

今日もいろいろあった。
うまくいったことも、
ちょっと疲れたことも。

でも。

こうして手をかければ、
少しずつ整っていく。

革靴も。
たぶん、自分も。

「明日も、よろしくね」

小さくつぶやく。

玄関に、ほのかにワックスの甘い匂いが残る。

部屋に戻る前、もう一度振り返る。

黒く艶めくローファー。

それは、ただの靴なのに、
どこか誇らしげに見えた。

陽菜は胸の奥で、静かに息を整える。

焦らなくていい。
急がなくていい。

ちゃんと磨けば、
ちゃんと光る。

その確信が、
今夜は少しだけ、あたたかかった。

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