『黄金の砂漠 ―貯金残高一億円の孤独―』

かおるこ

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第1話 北窓を開く冷気

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第1話 北窓を開く冷気

三月十六日。
志乃は台所の小さな卓袱台に向かい、古びた家計簿を閉じた。

紙の端は長年の指先に磨かれ、少しだけ柔らかくなっている。
最後の欄に、細い鉛筆で数字を書き込んだ。

**100,234,670**

志乃はしばらくその数字を見つめた。

「……一億、か」

声に出すと、思ったより乾いた音だった。
部屋は静かだった。静かすぎて、壁の中を流れる水道管のかすかな震えまで聞こえる。

窓から差し込む春の光が、家計簿の上で白く揺れていた。

「やっと、ね」

そう言ってみたが、胸の奥は不思議なほど動かなかった。

普通なら、もっと嬉しいものだろう。
長い年月、節約して、我慢して、積み上げてきた結果なのだから。

志乃は家計簿を撫でた。

「よくやったわね、私」

だが、言葉は薄かった。
まるで紙の上を滑るだけで、心に触れない。

時計が七時を打った。
志乃は立ち上がり、台所に向かった。

冷蔵庫を開ける。
白い冷気が、顔に触れた。

「さて……」

中にあるものは少ない。
青菜が一束。
半分残ったジャガイモ。
乾燥わかめ。

志乃は鍋に水を入れた。
ガスをつけると、青い火が小さく揺れる。

湯が温まるまでのあいだ、台所の窓を少し開けた。

北窓だった。

すぐに、ひやりとした空気が流れ込んできた。
まだ冬の名残を含んだ、細い冷気。

志乃は肩をすくめた。

「寒いわね、まだ」

誰もいないのに、そう言った。

遠くで電車の音がした。
板橋の夜の、乾いた鉄の響き。

湯がふつふつと鳴きはじめる。

志乃は青菜を洗った。
水が葉の上を流れ、青い匂いが立ちのぼる。

春の匂いだった。

「……もう春なのね」

鍋に青菜を落とすと、さっと色が変わる。
鮮やかな緑。

志乃は火を弱め、次に味噌汁を作り始めた。

包丁でジャガイモを切る。
コツ、コツ、とまな板に響く音。

わかめを水で戻すと、黒い葉がゆっくり膨らむ。

味噌を溶くと、湯気がふわりと立った。
味噌の香り。
わずかな甘さと、塩の匂い。

志乃は鼻で小さく息を吸った。

「……いい匂い」

だが、心はどこか遠くにあった。

食卓に皿を並べる。

茹でた青菜。
わかめとジャガイモの味噌汁。
白いご飯。

それだけだった。

志乃は箸を手に取った。

青菜をひと口。

柔らかい。
少し苦い。

「うん」

味は悪くない。
むしろ、体には良い。

志乃は静かに食べた。

味噌汁をすする。
温かさが喉を通り、胸の奥に落ちていく。

だが、その温かさはどこかで消えてしまう。

窓の外から、風が入った。
カーテンがかすかに揺れる。

春光が部屋の奥まで伸びてきた。

志乃はふと顔を上げた。

光は、畳の上に四角く落ちていた。
埃がゆっくり漂っている。

その光を見たとき、胸の奥で何かが動いた。

「……ねえ」

志乃は、誰もいない部屋に話しかけた。

「一億円、よ」

言葉は空気に溶けた。

返事はない。

当然だった。

志乃は箸を置いた。

胸が、妙に静かだった。

「……あれ?」

呟いた。

「変ね」

志乃はもう一度言った。

「一億円なのよ?」

だが、何も起きない。

胸は満ちない。
喜びもない。

ただ、空気だけがある。

志乃はゆっくり立ち上がり、窓のそばへ行った。

外を見る。

向かいの庭に、白木蓮が咲いていた。

大きな白い花。
朝の光を受けて、柔らかく開いている。

「きれいね」

志乃はつぶやいた。

花びらが一枚、風で揺れた。

そのとき、不意に思った。

**私は、この通帳を眺めて死ぬのかもしれない。**

志乃は息を止めた。

胸の奥に、冷たいものが落ちた。

北窓から入る風が、首筋を撫でた。
ぞくりとした。

「……何これ」

志乃は胸を押さえた。

「どうしたの、私」

足元が少し揺れる。

畳の上の光が、妙に遠い。

家計簿の数字が頭に浮かんだ。

一億。

一億。

一億。

その数字は、金色の砂みたいだった。
たくさんあるのに、手の中をすり抜ける。

志乃は小さく笑った。

「変ね……」

声が震えた。

「こんなにあるのに」

胸の奥が空洞だった。

ぽっかりと。

まるで箱の中身を全部取り出したあとみたいに。

志乃は窓をもう少し開けた。

冷たい空気が、部屋に流れ込む。

味噌汁の湯気が揺れた。

白木蓮が、風に揺れていた。

志乃はその花を見ながら、ぽつりと言った。

「……私」

声がかすれた。

「何してきたんだろうね」

返事はなかった。

北窓から入る冷気だけが、静かに部屋を満たしていた。

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