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第3話:密会はコーヒーの香りと共に
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第3話:密会はコーヒーの香りと共に
午後のカフェは、焦げた豆の匂いと、マダムたちの高笑いが混ざり合う、至って平和な空間のはずだった。
佐倉結衣は、窓際の席で冷めきったカフェラテを見つめていた。向かいに座る女——高峯凛子が、注文したばかりの「ローズヒップティー」の湯気を優雅に楽しんでいるのを見守りながら。
(なぜ、こうなった?)
発端は一通のメールだった。健一のスマホを盗み見たわけではない。結衣が自宅のポストで見つけた「美容サロンの特別招待状」に、手書きで『奥様、一度お話ししませんか?』と添えられていたのだ。差出人は、あのレシートに記されていた名前、高峯。
「……それで。私に何か用かしら。高峯さん」
結衣は、努めて冷徹な、ドラマの正妻らしいトーンで切り出した。背筋を伸ばし、顎を引く。美津子さんに教わった「修羅場の構え」だ。
ところが、凛子はカップをソーサーに戻すと、じっと結衣の顔を覗き込んできた。その瞳は、獲物を狙う雌豹のそれではなく、まるで出来の悪い標本を観察する学者のようだった。
「……奥様。一つ、いいですか?」
「な、なに」
「そのアイラインの引き方、十年前で止まってませんか?」
「は?」
結衣の口から、緊張感のない声が漏れた。
ビンタが飛んでくるか、「彼とは愛し合っているの」という宣言が飛び出すか、あるいは水をぶっかけられるか。そんな昼メロの定番を待ち構えていた結衣の脳内プロットが、音を立てて崩落する。
「目尻を跳ね上げすぎなんです。今のトレンドは、もっと粘膜を埋めるように自然に……ちょっと、失礼」
凛子はバッグから使い捨ての綿棒とパレットを取り出すと、あろうことか身を乗り出し、結衣の目元に手を伸ばした。
「ちょっ、ちょっと待って……!」
「動かないで。台無しになります」
凛子の指先から、あの『真夜中のシークレット・ローズ』が香った。至近距離。あまりにも芳醇で、甘く、そして逃げ場のない匂い。結衣の鼻腔が、健一のシャツにこびりついていたあの違和感を鮮明に思い出す。
(この匂い。この指が、健一に触れたの?)
怒りが湧くはずだった。なのに、凛子の手つきは驚くほど優しく、的確だった。結衣の瞼に触れる柔らかな感触と、カチリと鳴るコンパクトの音。
「はい、見てください。鏡」
差し出された手鏡を覗き込み、結衣は息を呑んだ。
そこには、いつもより三割増しで「意志が強く、なおかつ余裕のある女性」に見える自分の顔があった。古臭い、必死な「正妻の武装」が消え、洗練された現代の女がいた。
「どうして……こんなこと」
「健一さんが言ってたんです。『うちの奥さんは真面目すぎて、自分を後回しにしちゃう人なんだ』って」
凛子は、毒を含んだ蜜のような笑顔を浮かべた。
「私、そういう『もったいない人』を見ると、つい手を貸したくなっちゃう。敵に塩を送る……いえ、敵にアイラインを引く、かしら?」
「あなた、健一とどういう関係なの」
「関係? そうですね……『バッティングセンターの戦友』、でしょうか」
凛子はケラケラと笑った。その笑い声は、風鈴のように軽やかで、だからこそ結衣の心を逆撫でした。
「奥様、勘違いしないで。私、健一さんを奪いたいわけじゃないんです。ただ、あんなに詰めが甘くて、必死に『かっこいい不倫』を演じようとして自爆してる男を見てると、面白くて」
「自爆……?」
「そう。奥様にバレないようにって、一生懸命に隠れて、でもレシートは捨て忘れるし、柔軟剤の香りも隠せてない。滑稽だと思いませんか? 彼は今、自分だけの『昼メロ』を全力で上映中なんです」
結衣は、カフェラテの中に溶けた氷が、カランと音を立てるのを聞いた。
自分が必死に守ろうとしていた「平穏」や、戦おうとしていた「不倫という悪」が、この女の前では単なる「エンターテインメント」に成り下がっている。
「あなたは、彼を愛してないの?」
「愛? そんな重苦しいもの、サロン専売の美容液より価値がないわ」
凛子は冷めた紅茶を飲み干すと、結衣に向かって指を一本立てた。
「いいですか、奥様。昼メロっていうのは、二人の人間が『本気』になるから成立するんです。でも、一方が『コメディ』だと思って見ていたら、それはもうドラマにならない。私は、健一さんを『鑑賞』してるだけ。……奥様も、そっち側(・・・・)に来たらどうです?」
「そっち側……?」
「悲劇のヒロインを降りて、観客席に座るんです。その方が、お肌にもいいですよ。……あ、今日のメイク代、サービスしておきますね。その顔で、今夜は健一さんを驚かせてあげてください」
凛子は、嵐のように去っていった。
残されたのは、テーブルの上の甘い薔薇の香りと、今まで見たこともないほど美しく整えられた、自分自身の目元。
結衣は、震える手で鏡をもう一度見た。
怒っているのか、感心しているのか、それとも屈辱を感じているのか。自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、凛子のペースに、完全に飲まれてしまったということだ。
(あんな女……あんな女に、私は負けたの? それとも……)
結衣はバッグから財布を取り出し、レシートの裏に殴り書きをした。
『第3話:悪女の誘惑。ただし、メイク指導込み』
帰宅途中、結衣はいつものスーパーで、特売の鶏肉ではなく、少し高価な輸入ワインを買った。
美津子さんなら「毒殺の準備よ!」と騒ぐだろう。でも、今の結衣の心境は、もっと冷ややかで、奇妙に昂揚していた。
夜、帰宅した健一は、リビングに座る結衣を見て、玄関で硬直した。
「……え、結衣? なんか、今日、雰囲気違くない?」
「そう?」
結衣は、凛子に教わった通りの「余裕のある目元」で、夫をじっと見つめた。健一が狼狽え、視線を泳がせる。
その「滑稽さ」を、結衣は生まれて初めて、少しだけ面白いと思ってしまった。
(ああ、これが凛子の言っていた『観客席』の景色なの?)
「ねえ、健一。今日の柔軟剤の香り、やっぱり素敵ね」
結衣がそう微笑むと、健一は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「……あ、ああ。そうかな。あはは……」
不協和音のピアノが、結衣の脳内で鳴り響く。
でもそれは、悲劇の始まりではなく、もっと残酷で滑稽な、新しいゲームの合図だった。
**結衣(モノローグ)**
「凛子さん。あなたの脚本通りには、させない。……でも、このアイラインは、悪くないわね」
窓の外では、美津子がこちらを盗み見ている。
結衣は、夫の怯えた瞳に乾杯するように、赤いワインをゆっくりと煽った。
---
**【第3話・完】**
午後のカフェは、焦げた豆の匂いと、マダムたちの高笑いが混ざり合う、至って平和な空間のはずだった。
佐倉結衣は、窓際の席で冷めきったカフェラテを見つめていた。向かいに座る女——高峯凛子が、注文したばかりの「ローズヒップティー」の湯気を優雅に楽しんでいるのを見守りながら。
(なぜ、こうなった?)
発端は一通のメールだった。健一のスマホを盗み見たわけではない。結衣が自宅のポストで見つけた「美容サロンの特別招待状」に、手書きで『奥様、一度お話ししませんか?』と添えられていたのだ。差出人は、あのレシートに記されていた名前、高峯。
「……それで。私に何か用かしら。高峯さん」
結衣は、努めて冷徹な、ドラマの正妻らしいトーンで切り出した。背筋を伸ばし、顎を引く。美津子さんに教わった「修羅場の構え」だ。
ところが、凛子はカップをソーサーに戻すと、じっと結衣の顔を覗き込んできた。その瞳は、獲物を狙う雌豹のそれではなく、まるで出来の悪い標本を観察する学者のようだった。
「……奥様。一つ、いいですか?」
「な、なに」
「そのアイラインの引き方、十年前で止まってませんか?」
「は?」
結衣の口から、緊張感のない声が漏れた。
ビンタが飛んでくるか、「彼とは愛し合っているの」という宣言が飛び出すか、あるいは水をぶっかけられるか。そんな昼メロの定番を待ち構えていた結衣の脳内プロットが、音を立てて崩落する。
「目尻を跳ね上げすぎなんです。今のトレンドは、もっと粘膜を埋めるように自然に……ちょっと、失礼」
凛子はバッグから使い捨ての綿棒とパレットを取り出すと、あろうことか身を乗り出し、結衣の目元に手を伸ばした。
「ちょっ、ちょっと待って……!」
「動かないで。台無しになります」
凛子の指先から、あの『真夜中のシークレット・ローズ』が香った。至近距離。あまりにも芳醇で、甘く、そして逃げ場のない匂い。結衣の鼻腔が、健一のシャツにこびりついていたあの違和感を鮮明に思い出す。
(この匂い。この指が、健一に触れたの?)
怒りが湧くはずだった。なのに、凛子の手つきは驚くほど優しく、的確だった。結衣の瞼に触れる柔らかな感触と、カチリと鳴るコンパクトの音。
「はい、見てください。鏡」
差し出された手鏡を覗き込み、結衣は息を呑んだ。
そこには、いつもより三割増しで「意志が強く、なおかつ余裕のある女性」に見える自分の顔があった。古臭い、必死な「正妻の武装」が消え、洗練された現代の女がいた。
「どうして……こんなこと」
「健一さんが言ってたんです。『うちの奥さんは真面目すぎて、自分を後回しにしちゃう人なんだ』って」
凛子は、毒を含んだ蜜のような笑顔を浮かべた。
「私、そういう『もったいない人』を見ると、つい手を貸したくなっちゃう。敵に塩を送る……いえ、敵にアイラインを引く、かしら?」
「あなた、健一とどういう関係なの」
「関係? そうですね……『バッティングセンターの戦友』、でしょうか」
凛子はケラケラと笑った。その笑い声は、風鈴のように軽やかで、だからこそ結衣の心を逆撫でした。
「奥様、勘違いしないで。私、健一さんを奪いたいわけじゃないんです。ただ、あんなに詰めが甘くて、必死に『かっこいい不倫』を演じようとして自爆してる男を見てると、面白くて」
「自爆……?」
「そう。奥様にバレないようにって、一生懸命に隠れて、でもレシートは捨て忘れるし、柔軟剤の香りも隠せてない。滑稽だと思いませんか? 彼は今、自分だけの『昼メロ』を全力で上映中なんです」
結衣は、カフェラテの中に溶けた氷が、カランと音を立てるのを聞いた。
自分が必死に守ろうとしていた「平穏」や、戦おうとしていた「不倫という悪」が、この女の前では単なる「エンターテインメント」に成り下がっている。
「あなたは、彼を愛してないの?」
「愛? そんな重苦しいもの、サロン専売の美容液より価値がないわ」
凛子は冷めた紅茶を飲み干すと、結衣に向かって指を一本立てた。
「いいですか、奥様。昼メロっていうのは、二人の人間が『本気』になるから成立するんです。でも、一方が『コメディ』だと思って見ていたら、それはもうドラマにならない。私は、健一さんを『鑑賞』してるだけ。……奥様も、そっち側(・・・・)に来たらどうです?」
「そっち側……?」
「悲劇のヒロインを降りて、観客席に座るんです。その方が、お肌にもいいですよ。……あ、今日のメイク代、サービスしておきますね。その顔で、今夜は健一さんを驚かせてあげてください」
凛子は、嵐のように去っていった。
残されたのは、テーブルの上の甘い薔薇の香りと、今まで見たこともないほど美しく整えられた、自分自身の目元。
結衣は、震える手で鏡をもう一度見た。
怒っているのか、感心しているのか、それとも屈辱を感じているのか。自分でも分からない。ただ一つ確かなのは、凛子のペースに、完全に飲まれてしまったということだ。
(あんな女……あんな女に、私は負けたの? それとも……)
結衣はバッグから財布を取り出し、レシートの裏に殴り書きをした。
『第3話:悪女の誘惑。ただし、メイク指導込み』
帰宅途中、結衣はいつものスーパーで、特売の鶏肉ではなく、少し高価な輸入ワインを買った。
美津子さんなら「毒殺の準備よ!」と騒ぐだろう。でも、今の結衣の心境は、もっと冷ややかで、奇妙に昂揚していた。
夜、帰宅した健一は、リビングに座る結衣を見て、玄関で硬直した。
「……え、結衣? なんか、今日、雰囲気違くない?」
「そう?」
結衣は、凛子に教わった通りの「余裕のある目元」で、夫をじっと見つめた。健一が狼狽え、視線を泳がせる。
その「滑稽さ」を、結衣は生まれて初めて、少しだけ面白いと思ってしまった。
(ああ、これが凛子の言っていた『観客席』の景色なの?)
「ねえ、健一。今日の柔軟剤の香り、やっぱり素敵ね」
結衣がそう微笑むと、健一は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「……あ、ああ。そうかな。あはは……」
不協和音のピアノが、結衣の脳内で鳴り響く。
でもそれは、悲劇の始まりではなく、もっと残酷で滑稽な、新しいゲームの合図だった。
**結衣(モノローグ)**
「凛子さん。あなたの脚本通りには、させない。……でも、このアイラインは、悪くないわね」
窓の外では、美津子がこちらを盗み見ている。
結衣は、夫の怯えた瞳に乾杯するように、赤いワインをゆっくりと煽った。
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**【第3話・完】**
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