『昼メロになる前に』

かおるこ

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第9話:昼メロの幕が上がる時

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第9話:昼メロの幕が上がる時

西麻布の夜風は、張り詰めた糸を切るように冷たく、それでいてどこか官能的な香りを運んでいた。レストランを出た直後の歩道。街灯のオレンジ色が、三人の影を歪に地面に焼き付けている。

「……さて」

結衣は、バッグから取り出した細いメンソールの煙草に火をつけた。普段は吸わない。けれど、今の自分にはこの刺すような煙と、指先に残る火薬の匂いが必要だった。

「健一。あなた、さっきから黙ってるけど。何か言うことは? 『買収』された感想はどうかしら」

「結衣……あの、本当に、その……」

健一の言葉は、壊れた蛇口から漏れる水のように頼りない。彼の視線は、結衣の鋭いヒールと、凛子の艶やかな唇の間を往復し、逃げ場を探して泳いでいる。

「……フフッ。あはははは!」

沈黙を破ったのは、凛子の高笑いだった。彼女は街灯の柱に背を預け、まるでおかしな喜劇のエンディングを見たかのように肩を揺らしている。

「ちょっと、健一さん。その顔、鏡で見てみなさいよ。テラフォーミングだなんて大口叩いてた男が、奥様に買い取られて、今にも泣き出しそうな捨て犬みたいな顔して。……ああ、おかしい。私の『鑑賞眼』も、焼きが回ったかしら」

「凛子さん、あなたまで……!」

「あら、事実でしょう?」

凛子は結衣の方へ一歩歩み寄ると、彼女の煙草の煙をくゆらす横顔をまじまじと見つめた。
「ねえ、奥様。……いえ、結衣さん。あなた、さっきのレストランで、あの男の借金を一括で返した時、どんな気分だった?」

結衣は、肺の奥まで入れた煙を、ゆっくりと健一の顔に向けて吐き出した。
「気分? そうね……。ずっと首に絡みついていた、湿った生温かい鎖が、一気に冷たい金属に変わったような気分。……清々しいわよ。もう『妻』として彼を愛そうなんて努力しなくていいんですもの。ただの『不良資産』として管理すればいいんだから」

その言葉に、凛子の目が爛々と輝いた。
「……最高。あなた、最高だわ。私、今までいろんな男を転がしてきたけど、あなたみたいな『正妻』には会ったことがない。……ねえ、これ、ビンタし合ってる場合じゃないわよね?」

「ええ。時間の無駄だわ。メイクが崩れるし」

結衣は、足元で煙草を揉み消した。
二人の女の視線が、火花を散らすのではなく、共鳴するように重なる。そこには、裏切りへの怒りを超越した、強烈な「連帯」が生まれていた。

「……ちょっと、二人とも……置いていかないでくれよ。俺、これからどうすれば……」

健一がおずおずと結衣の袖を引こうとする。
結衣は、その手を汚いものを見るような目で一瞥し、凛子に向き直った。

「凛子さん。このあと、時間ある? 近くに、男性禁制の凄くいいバーがあるの。そこで、この『甲斐性なしの取り扱い説明書』でも一緒に作らない?」

「乗ったわ。あ、ついでに私の知ってる『男を骨までしゃぶる投資術』も教えてあげる」

二人の女は、健一を物理的に、そして精神的に置き去りにして、軽やかな足取りで歩き出した。

「お、おい! 結衣! 凛子さん! 俺、一人でどうやって帰れば……財布も、君が預かってるじゃないか!」

健一の叫びが夜空に虚しく響く。
結衣は振り返りもせず、頭上でひらひらと手を振った。

「歩いて帰りなさいよ。火星まで行ける根性があるなら、西麻布から自宅までなんて余裕でしょう? ……あ、明日の朝食もちくわよ。一本だけね」

「……そんな……っ!」

夜の闇に沈む健一の姿を背に、二人は夜の街へ消えていく。

### ■ シカケられた二次会:秘密のバーにて

地下へ続く階段を降りると、そこは薔薇の香りと、古いレコードのノイズが心地よい、重厚な空間だった。
「シャンパンを。一番高いやつ。……あ、お支払いは彼のカードで。まだ止めてないから」
結衣のオーダーに、凛子が愉快そうにグラスを合わせた。

「……ねえ、結衣さん。正直に言って。健一さんのこと、まだ一ミリくらいは愛してるの?」

凛子の問いに、結衣は運ばれてきた泡の輝きを見つめ、静かに首を振った。
「愛? ……いいえ。あれはもう、愛なんて綺麗なものじゃないわ。……執着かしらね。自分が注ぎ込んだ時間とエネルギーを、どうにかして回収したいっていう、投資家としての執念よ」

「……面白い。私、あなたのそういう『乾いた情熱』、大好きよ。ねえ、いっそのこと、健一さんをシェア(分かち合い)しない?」

「シェア?」

「そう。あなたが家計と生活を管理して、私が時々、彼の『夢』という名のゴミを掃除してあげる。……もちろん、あなたが飽きるまで」

凛子の提案に、結衣は初めて、心からの笑みを漏らした。
「……悪くないわね。でも、あんな甲斐性なし、シェアする価値があるかしら?」

「価値は、私たちが作るのよ。……さあ、飲みましょう。昼メロの幕が上がる前に、私たちがその舞台を買い取ってしまったお祝いに」

二人のグラスが、澄んだ音を立ててぶつかった。
窓の外では、美津子が必死にスマホで店内の様子を撮影しようと、怪しく徘徊しているのが見える。

結衣は、その光景を眺めながら、自分の中にあった「地味で真面目な主婦」が、完全に死んだことを確信した。
代わりに生まれたのは、毒を食らわば皿まで、という覚悟を決めた、新しい自分の姿。

「……凛子さん。明日の朝、健一がどんな顔で起きてくるか、賭けない?」

「いいわね。私は『絶望のあまりテラフォーミングの旗を自作してる』に一万点」

「私は『ちくわを握りしめて号泣してる』に二万点」

夜は更けていく。
取り残された男のことなど、もう誰も思い出さない。
グラスの中で踊る泡のように、彼女たちの人生は、より自由に、より残酷に、美しく弾け始めていた。

**結衣(モノローグ)**
「第9話。幕が上がったのは、ドロドロの愛憎劇じゃなかった。……それは、二人の女が手を取り合って、一人の男を『再資源化』する、愉快な解体ショーの始まりだった」

結衣は、凛子の肩にそっと頭を預け、閉ざされたバーの入り口を見つめた。
明日からの脚本は、もう出来上がっている。
主人公は、私。
そして、名脇役は……隣で笑う、この「魔女」。

---

**【第9話・完】**

**物語はいよいよ最終回(第10話)「そして日常は続いていく」へ!**



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