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第1話「寄生虫」
第1話「寄生虫」
娘の体は、燃えていた。
額に当てた手のひらがびくりとする。体温計の液晶には「40.1」の数字。何度見ても変わらない。
「ママ……あつい……」
かすれた声。唇は乾き、頬は赤く、まぶたは重そうに震えている。美咲は濡れタオルを絞り直し、そっと額に乗せた。水の滴る音が、静まり返ったリビングにやけに大きく響く。
時計は午前二時を回っていた。
電話をかけても、拓也は出なかった。
“接待中”
短いメッセージだけが、既読にもならずに画面に残っている。
玄関の鍵が回ったのは、それから十分後だった。
カチャリ、という音がやけに軽い。
ドアが開く。冷たい夜気とともに、甘い香水の匂いが流れ込んだ。
「……ただいま」
ネクタイを緩めながら入ってきた拓也は、酔っているのか少し足元がふらついている。
「拓也、熱が……四十度なの」
美咲は立ち上がる。声が自然と小さくなるのは、娘を起こさないためか、それとももう怒鳴られるとわかっているからか。
「は?」
拓也は眉をひそめる。
「子どもの熱くらい母親がなんとかしろよ」
その一言が、空気を凍らせる。
「でも、こんな高熱……救急外来に――」
「俺は“本物の仕事”してるんだよ」
吐き捨てるように言う。
「昼間遊んでる奴と一緒にすんな」
遊んでいる。
その言葉が、胸の奥に小さな針のように刺さる。
「私は遊んでなんか……」
「じゃあ金、稼いでこいよ」
拓也は鞄を乱暴にソファへ投げた。
「誰が養ってやってると思ってる?」
その声は大きくない。だが低く、重く、確実に美咲を押し潰す。
娘が、かすかに呻いた。
「……やめて、起きちゃう」
「知るか」
拓也はポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルに叩きつけた。
白い紙。
赤い枠。
見慣れた書式。
「離婚届だ」
紙が、ぱさりと広がる。
「お前みたいな無能主婦、離婚しても生きていけないぞ?」
唇の端が歪む。
「中古の専業主婦なんて、誰が拾うんだよ。感謝してさっさとハンコ押せ」
美咲は紙を見下ろす。
指先が震えているのが、自分でもわかる。
娘の荒い呼吸。
香水の甘い匂い。
体温計の電子音の余韻。
ぐらり、と視界が揺れた。
「……寄生虫なんだよ、お前は」
とどめのように、拓也が言う。
その瞬間、何かが音を立てて切れた。
怒鳴り返したわけではない。
涙も出なかった。
ただ、胸の奥で、静かに。
美咲は離婚届を拾い上げる。
紙は軽い。驚くほど軽い。
「押せよ」
拓也が顎でしゃくる。
美咲はゆっくり顔を上げる。
拓也の目は、勝っている男の目だった。
支配していると思っている男の目。
娘の手が、布団の中から伸びて、美咲の袖を掴んだ。
「ママ……」
その小さな声が、美咲を現実に引き戻す。
震えが止まる。
指先が、ぴたりと止まる。
「……はんこは押さない」
静かな声だった。
「は?」
「はんこは押さない」
もう一度、はっきりと言う。
拓也が鼻で笑う。
「強がるなよ。生活費止めたら三日で泣きつくだろ」
美咲は、離婚届を見つめる。
赤い枠の中の空白。
そこに自分の名前を書く未来を、想像してみる。
娘と二人、追い出される未来。
“無能主婦”という烙印。
“寄生虫”という言葉。
そして、ふと気づく。
――寄生しているのは、どちらだろう。
美咲は、紙を両手で持つ。
ゆっくりと。
真ん中から。
引き裂く。
ビリ、と乾いた音が、夜の静寂を破る。
「なにしてんだよ!」
拓也が怒鳴る。
もう一度、破る。
さらに小さく。
白い紙片が、床に落ちる。
「あなたが自由になるには」
美咲は、拓也をまっすぐ見る。
その目には、もう怯えはない。
「高すぎる代償を払ってもらうわ」
拓也の顔から、わずかに笑みが消える。
「は?」
「“誰が養ってやってる”って言ったわよね」
声は静かだ。
「教えてあげる。養うって、支配じゃないの」
拓也は何か言い返そうとするが、言葉が見つからない。
娘の荒い呼吸が、部屋に戻る。
美咲は再び布団の横に座り、娘の手を握る。
その手は小さく、熱い。
守るものが、ここにある。
拓也は舌打ちをして寝室へ向かった。ドアが乱暴に閉まる。
部屋に残るのは、夜と、娘の熱と、破られた紙の残骸。
美咲は静かに息を吐く。
震えはもうない。
恐怖もない。
ただ、計算が始まった。
数字で。
制度で。
法で。
娘の額の汗を拭いながら、美咲は小さく呟いた。
「あなたが自由になるには、高すぎる代償を払ってもらう」
夜は、まだ明けない。
けれど、美咲の中では、もう判決が下りていた。
娘の体は、燃えていた。
額に当てた手のひらがびくりとする。体温計の液晶には「40.1」の数字。何度見ても変わらない。
「ママ……あつい……」
かすれた声。唇は乾き、頬は赤く、まぶたは重そうに震えている。美咲は濡れタオルを絞り直し、そっと額に乗せた。水の滴る音が、静まり返ったリビングにやけに大きく響く。
時計は午前二時を回っていた。
電話をかけても、拓也は出なかった。
“接待中”
短いメッセージだけが、既読にもならずに画面に残っている。
玄関の鍵が回ったのは、それから十分後だった。
カチャリ、という音がやけに軽い。
ドアが開く。冷たい夜気とともに、甘い香水の匂いが流れ込んだ。
「……ただいま」
ネクタイを緩めながら入ってきた拓也は、酔っているのか少し足元がふらついている。
「拓也、熱が……四十度なの」
美咲は立ち上がる。声が自然と小さくなるのは、娘を起こさないためか、それとももう怒鳴られるとわかっているからか。
「は?」
拓也は眉をひそめる。
「子どもの熱くらい母親がなんとかしろよ」
その一言が、空気を凍らせる。
「でも、こんな高熱……救急外来に――」
「俺は“本物の仕事”してるんだよ」
吐き捨てるように言う。
「昼間遊んでる奴と一緒にすんな」
遊んでいる。
その言葉が、胸の奥に小さな針のように刺さる。
「私は遊んでなんか……」
「じゃあ金、稼いでこいよ」
拓也は鞄を乱暴にソファへ投げた。
「誰が養ってやってると思ってる?」
その声は大きくない。だが低く、重く、確実に美咲を押し潰す。
娘が、かすかに呻いた。
「……やめて、起きちゃう」
「知るか」
拓也はポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルに叩きつけた。
白い紙。
赤い枠。
見慣れた書式。
「離婚届だ」
紙が、ぱさりと広がる。
「お前みたいな無能主婦、離婚しても生きていけないぞ?」
唇の端が歪む。
「中古の専業主婦なんて、誰が拾うんだよ。感謝してさっさとハンコ押せ」
美咲は紙を見下ろす。
指先が震えているのが、自分でもわかる。
娘の荒い呼吸。
香水の甘い匂い。
体温計の電子音の余韻。
ぐらり、と視界が揺れた。
「……寄生虫なんだよ、お前は」
とどめのように、拓也が言う。
その瞬間、何かが音を立てて切れた。
怒鳴り返したわけではない。
涙も出なかった。
ただ、胸の奥で、静かに。
美咲は離婚届を拾い上げる。
紙は軽い。驚くほど軽い。
「押せよ」
拓也が顎でしゃくる。
美咲はゆっくり顔を上げる。
拓也の目は、勝っている男の目だった。
支配していると思っている男の目。
娘の手が、布団の中から伸びて、美咲の袖を掴んだ。
「ママ……」
その小さな声が、美咲を現実に引き戻す。
震えが止まる。
指先が、ぴたりと止まる。
「……はんこは押さない」
静かな声だった。
「は?」
「はんこは押さない」
もう一度、はっきりと言う。
拓也が鼻で笑う。
「強がるなよ。生活費止めたら三日で泣きつくだろ」
美咲は、離婚届を見つめる。
赤い枠の中の空白。
そこに自分の名前を書く未来を、想像してみる。
娘と二人、追い出される未来。
“無能主婦”という烙印。
“寄生虫”という言葉。
そして、ふと気づく。
――寄生しているのは、どちらだろう。
美咲は、紙を両手で持つ。
ゆっくりと。
真ん中から。
引き裂く。
ビリ、と乾いた音が、夜の静寂を破る。
「なにしてんだよ!」
拓也が怒鳴る。
もう一度、破る。
さらに小さく。
白い紙片が、床に落ちる。
「あなたが自由になるには」
美咲は、拓也をまっすぐ見る。
その目には、もう怯えはない。
「高すぎる代償を払ってもらうわ」
拓也の顔から、わずかに笑みが消える。
「は?」
「“誰が養ってやってる”って言ったわよね」
声は静かだ。
「教えてあげる。養うって、支配じゃないの」
拓也は何か言い返そうとするが、言葉が見つからない。
娘の荒い呼吸が、部屋に戻る。
美咲は再び布団の横に座り、娘の手を握る。
その手は小さく、熱い。
守るものが、ここにある。
拓也は舌打ちをして寝室へ向かった。ドアが乱暴に閉まる。
部屋に残るのは、夜と、娘の熱と、破られた紙の残骸。
美咲は静かに息を吐く。
震えはもうない。
恐怖もない。
ただ、計算が始まった。
数字で。
制度で。
法で。
娘の額の汗を拭いながら、美咲は小さく呟いた。
「あなたが自由になるには、高すぎる代償を払ってもらう」
夜は、まだ明けない。
けれど、美咲の中では、もう判決が下りていた。
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