『はんこは押さない 〜「誰が養ってやってる?」と言った夫へ、判決です〜』

かおるこ

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第2話「請求日」

第2話「請求日」

 朝の空気は、冷たかった。

 実家の玄関先で、美咲は小さく息を吐いた。
 娘はまだ熱の名残でぼんやりしている。頬は少し赤いが、昨夜よりは落ち着いている。

「ママ……ここ、ばあばの匂いする」

 干した布団と味噌汁の匂いが混じる、懐かしい匂い。

「そうだね。ちょっとだけ、お世話になろうね」

 声が震えないように、ゆっくり話す。

 昨夜の香水の匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。

 ――寄生虫。

 あの言葉は、耳の内側にこびりついている。

 午前十時。

 美咲は、娘を母に預け、駅前の法律事務所へ向かった。

 ビルのガラスは曇りなく、冷たく光っている。
 エレベーターの鏡に映る自分の顔は、やけに白かった。

 受付の女性が微笑む。

「ご予約の佐藤様ですね」

 “様”という言葉に、一瞬だけ胸が揺れる。

 呼ばれた小さな応接室は、コーヒーと紙の匂いがした。
 机の上には六法全書と分厚いファイル。

 弁護士は四十代半ばくらいの女性だった。落ち着いた声で言う。

「昨夜のこと、順番にお話しいただけますか」

 美咲は、話した。

 高熱。
 香水。
 離婚届。
 寄生虫。

 言葉にすると、喉の奥がひりつく。

「……生活費を止める、とも言われました」

 指先が無意識にスカートを握る。

 弁護士は静かに頷いた。

「ではまず、確認です。離婚届は提出していませんね?」

「はい。破りました」

「それで結構です」

 その一言で、背中の力が少し抜けた。

 弁護士はペンを持ち、淡々と言う。

「ご主人がどう言おうと、法律上、あなたは“配偶者”です」

 その言葉が、胸の奥に落ちる。

「配偶者には“生活保持義務”があります」

「……せいかつ、ほじ?」

「簡単に言えば、夫婦は同じ生活水準で暮らす義務がある、ということです」

 同じ。

 あの男と。

 同じ水準。

「別居しても?」

「別居してもです」

 美咲は顔を上げる。

「請求した日から、婚姻費用は発生します」

「……請求した日から?」

「はい。今日、請求すれば、今日からです」

 空気が、変わった。

 昨夜、床に落ちた離婚届の音が、頭の中で反響する。

「ご主人の年収は?」

「……一千五百万ほどです」

 弁護士は算定表を開く。

 数字が並ぶ。
 無機質な、冷たい表。

「お子さん一人。あなたは無収入。……概算で月二十数万円ですね」

「……そんなに」

「ええ。これは“権利”です」

 権利。

 その言葉は、温度がある。

「でも、彼は払わないって」

「払う払わないではありません」

 弁護士ははっきりと言った。

「払う“義務”がありますから」

 その瞬間、胸の奥で何かが確かに動いた。

 義務。

 あの人が軽々しく使っていた“養う”という言葉とは、違う重み。

「では、内容証明を出しましょう」

 プリンターが唸りを上げる。
 紙が吐き出される音。

 美咲はその音を、じっと聞いていた。

 白い紙。
 整った文章。

 “婚姻費用分担請求”。

 美咲の名前。
 拓也の名前。

 ペンを握る。

 インクの匂いがかすかに立つ。

 サインを書く手は、昨夜ほど震えていなかった。

 郵便局の窓口で、赤い印が押される。

 コン、と乾いた音。

 その音が、妙に大きく感じた。

 ――請求日。

 帰宅した美咲のスマートフォンが震えたのは、夜だった。

 拓也からの着信。

「なに考えてんだよ」

 開口一番、怒鳴る声。

「内容証明? ふざけんな」

「ふざけてないわ」

 声は不思議と静かだった。

「払うわけないだろ」

 笑う。

 昨夜と同じ、見下す笑い。

「勝手に出て行っておいて、金だけ取る気か?」

「勝手じゃない」

「寄生虫のくせに偉そうに」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 だが、美咲は深く息を吸う。

「請求したわ」

「だから何だ」

「今日から、発生するの」

「は?」

「婚姻費用」

 一瞬の沈黙。

「俺が払うって決めたわけじゃない」

「決めるのは、あなたじゃない」

 拓也が舌打ちする。

「どうせ泣いて戻ってくる」

「戻らない」

「生活費止めるぞ」

「止められない」

「は?」

 美咲は、弁護士の言葉を思い出す。

 冷たい声。

 確信に満ちた声。

 “払う義務がありますから”

「あなたには、義務があるの」

 電話口の向こうで、息が詰まる音がした。

「義務だと?」

「生活保持義務」

「なにそれ」

「あなたと同じ水準で、私と娘を生活させる義務」

 静かに、はっきりと。

「あなたが“養ってやってる”って言った、その責任よ」

 沈黙。

 長い沈黙。

 やがて、低い声。

「……調子に乗るなよ」

「乗ってない」

 美咲は娘の寝顔を見る。

 穏やかな呼吸。
 少しだけ下がった熱。

「守るだけ」

 電話が切れた。

 部屋は静かだ。

 けれど、昨夜とは違う静けさだった。

 香水の匂いはない。
 代わりに、味噌汁と洗濯洗剤の匂い。

 美咲は窓の外を見る。

 夜の街灯が、淡く滲んでいる。

 胸の奥で、何かが確かに芽を出していた。

 恐怖ではない。

 怒りでもない。

 数字という武器。

 法という盾。

 請求日は、もう始まっている。

 彼が笑っていられるのは、今日までだ。

 美咲は小さく呟いた。

「大丈夫。払う“義務”があるから」

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