『はんこは押さない 〜「誰が養ってやってる?」と言った夫へ、判決です〜』

かおるこ

文字の大きさ
4 / 16

第3話「算定表」

第3話「算定表」

 家庭裁判所の廊下は、思ったよりも静かだった。

 ワックスの匂い。
 硬い椅子。
 壁に掛かった時計の秒針が、やけに大きく響く。

 美咲は両手を膝の上で組み、呼吸を整えていた。
 掌がじんわり汗ばんでいる。

 隣には弁護士。
 向かいのベンチには拓也。

 グレーのスーツ。
 磨かれた革靴。
 いつもの“外の顔”。

 目が合う。

「こんなとこまで来るなんてな」

 小さく鼻で笑う。

「大ごとにして、満足か?」

 美咲は答えない。

 名前が呼ばれ、調停室へ入る。

 部屋は意外と狭い。
 長机を挟み、調停委員が二人。
 柔らかい口調の初老の女性と、無表情な男性。

「本日は婚姻費用の件ですね」

 淡々とした声。

 拓也が先に口を開いた。

「正直、驚いてますよ。勝手に家を出ておいて金を請求するとか」

「奥様はお子様の体調不良と、ご主人の不貞行為を理由に別居されたと伺っています」

「夫婦喧嘩の延長ですよ」

 肩をすくめる。

 余裕のある声。

 美咲は机の木目を見つめる。
 鼓動が、ゆっくり速くなる。

 弁護士が資料を差し出す。

「では、ご主人の年収を確認します。直近の源泉徴収票で一千五百万円ですね」

 調停委員がうなずく。

「奥様は現在無収入」

「専業主婦ですから」

 拓也が割り込む。

「自分で選んだ道でしょう?」

 美咲の胸がきゅっと縮む。

 けれど弁護士は動じない。

「それでは算定表に当てはめます」

 紙が広げられる音。

 カサリ、と乾いた響き。

 そこには細かな数字の列。
 交差する線。
 冷たいグラフ。

 調停委員の指が、ゆっくりと線をなぞる。

「年収一千五百万円。子一人。婚姻費用は――」

 一拍。

「月額、およそ二十四万円が相当です」

 静かな部屋に、その数字が落ちた。

「は?」

 拓也の声が裏返る。

「二十四万?」

「はい」

「そんなに払ったら俺の生活はどうなる!」

 机を叩きそうな勢いで身を乗り出す。

「住宅ローンもあるし、交際費もあるし、俺だって生活があるんですよ!」

 調停委員が穏やかに言う。

「婚姻費用は生活保持義務に基づくものです」

「だから何だって言うんですか!」

「夫婦は同程度の生活を維持する義務があります」

 拓也の顔が赤くなる。

「俺が稼いだ金ですよ? なんでこんなに取られなきゃいけない!」

 “取られる”。

 その言葉が、美咲の耳に引っかかる。

 取るのではない。

 守るのだ。

 美咲は顔を上げる。

 喉が乾いている。
 けれど声は、思ったよりも澄んでいた。

「私と娘を、あなたと同じ水準で生活させる義務があります」

 室内が、一瞬だけ静まる。

 拓也が美咲を見る。

 その目は、初めて焦りを帯びていた。

「何様のつもりだよ」

「何様でもない」

 美咲は続ける。

「あなたが“誰が養ってやってる”って言った」

 心臓が、どくりと鳴る。

「養うって、責任でしょう?」

 拓也の唇が歪む。

「調子に乗るな」

「乗っていない」

 美咲は視線を逸らさない。

「私は贅沢がしたいわけじゃない」

 娘の熱い額が、脳裏に浮かぶ。

「娘の薬代と、食事と、学校と――」

 声が震えそうになるのを、押さえ込む。

「あなたと同じ水準で、生きるだけ」

 調停委員が小さくうなずいた。

「ご主人、これが法的基準です」

「納得できない!」

 拓也が叫ぶ。

「俺の努力はどうなるんだ!」

 努力。

 深夜二時の香水。
 離婚届。
 寄生虫。

 美咲の胸の奥に、静かな怒りが灯る。

「あなたの努力は、否定していない」

 声は低く、はっきりと。

「でも、私と娘の生活を否定する権利もない」

 拓也の額に、汗がにじむ。

 指先が机の縁を掴んでいる。

 その姿は、昨夜の“王様”ではなかった。

 調停委員が確認する。

「月額二十四万円で合意できますか」

「できるわけないだろ!」

 怒鳴る声が、壁に跳ね返る。

 だが、もう笑ってはいない。

 余裕もない。

 美咲はその変化を、確かに見た。

 あの夜、離婚届を投げた男。

 “寄生虫”と笑った男。

 その顔から、初めて色が抜ける。

 弁護士が静かに言う。

「審判に移行すれば、ほぼ同額になります」

 拓也の喉が動く。

 唾を飲み込む音が、やけに大きい。

「……二十四万……」

 その呟きは、怒号ではなく、計算だった。

 生活費。
 ローン。
 交際費。
 不倫相手。

 数字が頭を巡っているのが、わかる。

 美咲は、背筋を伸ばす。

 冷たい算定表。

 そこに並ぶ数字は、感情を持たない。

 だが、その無機質さが、今は頼もしい。

 法は、誰かを罵倒しない。

 ただ、等しく測る。

「私たちは、あなたの敵じゃない」

 美咲は静かに言う。

「あなたが父親である限り」

 拓也が顔を上げる。

 その目には、もう“支配”はなかった。

 あるのは、初めて見る不安。

 調停室の空気が、少し重くなる。

 時計の針が進む音。

 紙をめくる音。

 美咲の心臓は、静かに整っていく。

 あの夜、破った紙。

 今日、広げられた紙。

 同じ白でも、意味は違う。

 算定表は、処刑台ではない。

 鏡だ。

 そこに映ったのは、
 “養ってやってる男”ではなく、

 義務を負う一人の父親だった。

 初めて、拓也の顔から余裕が消える。

 それを見届けながら、美咲はゆっくりと息を吐いた。

 数字は、冷たい。

 でも、正しい。

 そしてその正しさは、もう彼の手の中にはなかった。

感想 0

あなたにおすすめの小説

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる

椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。 その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。 ──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。 全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。 だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。 「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」 その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。 裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…