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第4話「削られる王様」
第4話「削られる王様」
月末。
振込通知のメールが、拓也のスマートフォンに届く。
――婚姻費用 二十四万円 振込完了。
数字が、やけにくっきりと表示されている。
「……二十四万」
低く吐き出す。
以前なら、気にも留めなかった額だ。
一晩の接待で消えることもあった金額。
だが今は違う。
口座残高が、目に見えて削られていく。
自分の金が、自分の知らない場所へ流れていく感覚。
拓也は舌打ちし、ネクタイを緩める。
その夜の店は、以前とは違った。
薄暗い高級ラウンジではなく、駅前の少し騒がしいワインバー。
「ここ?」
玲奈が不満そうに店内を見回す。
「前はもっと静かなとこだったよね」
「最近、忙しいんだ」
「忙しいって、仕事?」
探るような目。
拓也はグラスを傾ける。
「色々あってな」
「……奥さん?」
その一言で、喉が詰まる。
「調停中だ」
「で? いつ離婚してくれるの?」
玲奈はワインをくるくると回す。
「私、待つの嫌いなんだよね」
「もう少しだ」
「もう少しって、いつ?」
視線が鋭くなる。
「ねえ、今月なんでこんな節約モードなの?」
拓也は眉をひそめる。
「節約じゃない」
「だって前はホテルもスイートだったし、プレゼントもさ」
玲奈はため息をつく。
「まさか、まだあの人にお金払ってるの?」
払っている。
毎月、きっちりと。
二十四万円。
「義務だからな」
言葉が、苦く口に残る。
「は? 義務?」
「婚姻費用だ」
玲奈の顔が歪む。
「離婚してないの?」
「してない」
「なんで?」
拓也は答えない。
答えられない。
“はんこは押さない”という静かな声が、耳の奥で蘇る。
玲奈が声を落とす。
「ねえ、いつ離婚してくれるの?」
その言葉は、甘えではない。
確認だ。
価値の確認。
「俺の金だ。すぐ片付く」
そう言いながら、心のどこかでわかっている。
片付かない。
算定表の冷たい数字。
調停室の空気。
“生活保持義務”。
王様の生活は、少しずつ削られている。
***
その頃。
実家のリビングは、夕飯の匂いで満ちていた。
煮物の湯気。
炊きたてのご飯。
柔らかな灯り。
「ママ、にがい」
娘が薬の袋を握りしめ、顔をしかめる。
「うん、ちょっと苦いね」
美咲はコップを差し出す。
「お水、飲もう」
小さな喉がごくりと鳴る。
「えらいね」
頭を撫でる。
その指先に、熱はもうない。
テーブルの上には、レシート。
薬代。
食材。
学用品。
どれも派手ではない。
ただ、必要なもの。
美咲は通帳を開く。
振込欄に並ぶ数字。
二十四万円。
それは復讐の証ではない。
生活の土台。
スマートフォンが震える。
拓也からだ。
「なんだよ、毎月毎月」
不機嫌な声。
「足りないとか言うなよ」
「言わない」
美咲は淡々と答える。
「決まった額を受け取っているだけ」
「お前、いい気なもんだな」
「いい気じゃない」
娘が美咲の袖を引く。
「ママ、絵本読んで」
「うん、待ってね」
拓也が鼻で笑う。
「楽して暮らしてるんだろ」
楽。
その言葉に、わずかに胸が揺れる。
だが声は揺れない。
「これは贅沢じゃない。生活よ」
一瞬、沈黙。
「なんだと?」
「あなたと同じ水準で生きるための費用」
静かに、はっきりと。
「娘の薬。食事。学校」
「俺だって生活がある」
「あなたの生活は、守られているでしょう」
家も、車も、仕事も。
「私たちも守られるべきなの」
電話口の向こうで、舌打ち。
「ふざけるな」
「ふざけていない」
娘が笑う声が、背後で弾ける。
その無邪気な音が、部屋の空気を温める。
拓也の沈黙が、長くなる。
かつては、彼の機嫌が家の空気を支配していた。
今は違う。
「いつまで続ける気だ」
低い声。
「続けるんじゃない」
美咲は言う。
「あなたが父親でいる限り、続くの」
言葉は穏やかだ。
だが揺るがない。
電話が切れる。
美咲は娘の横に座る。
絵本を開く。
ページをめくる音。
柔らかな紙の感触。
娘が笑い、指で絵をなぞる。
「ママ、王様だって」
小さな声。
美咲は絵を見る。
金の冠をかぶった王様。
けれど、物語の最後では、王様は王座を失う。
「王様もね」
美咲は静かに言う。
「ちゃんと責任を取らないと、王様じゃいられないの」
「せきにん?」
「うん。大事なこと」
娘はよくわからないまま、うなずく。
窓の外、夜風が木を揺らす。
王様の生活は、削られていく。
けれどここには、削られないものがある。
温かいご飯。
安心して眠れる布団。
薬を飲ませる手。
それは派手ではない。
だが確かな、生活。
美咲は娘の額に口づける。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるように。
二十四万円。
それは奪う金ではない。
守るための、最低限。
王様は削られている。
けれどここでは、ただ静かに、正しく、生きている。
月末。
振込通知のメールが、拓也のスマートフォンに届く。
――婚姻費用 二十四万円 振込完了。
数字が、やけにくっきりと表示されている。
「……二十四万」
低く吐き出す。
以前なら、気にも留めなかった額だ。
一晩の接待で消えることもあった金額。
だが今は違う。
口座残高が、目に見えて削られていく。
自分の金が、自分の知らない場所へ流れていく感覚。
拓也は舌打ちし、ネクタイを緩める。
その夜の店は、以前とは違った。
薄暗い高級ラウンジではなく、駅前の少し騒がしいワインバー。
「ここ?」
玲奈が不満そうに店内を見回す。
「前はもっと静かなとこだったよね」
「最近、忙しいんだ」
「忙しいって、仕事?」
探るような目。
拓也はグラスを傾ける。
「色々あってな」
「……奥さん?」
その一言で、喉が詰まる。
「調停中だ」
「で? いつ離婚してくれるの?」
玲奈はワインをくるくると回す。
「私、待つの嫌いなんだよね」
「もう少しだ」
「もう少しって、いつ?」
視線が鋭くなる。
「ねえ、今月なんでこんな節約モードなの?」
拓也は眉をひそめる。
「節約じゃない」
「だって前はホテルもスイートだったし、プレゼントもさ」
玲奈はため息をつく。
「まさか、まだあの人にお金払ってるの?」
払っている。
毎月、きっちりと。
二十四万円。
「義務だからな」
言葉が、苦く口に残る。
「は? 義務?」
「婚姻費用だ」
玲奈の顔が歪む。
「離婚してないの?」
「してない」
「なんで?」
拓也は答えない。
答えられない。
“はんこは押さない”という静かな声が、耳の奥で蘇る。
玲奈が声を落とす。
「ねえ、いつ離婚してくれるの?」
その言葉は、甘えではない。
確認だ。
価値の確認。
「俺の金だ。すぐ片付く」
そう言いながら、心のどこかでわかっている。
片付かない。
算定表の冷たい数字。
調停室の空気。
“生活保持義務”。
王様の生活は、少しずつ削られている。
***
その頃。
実家のリビングは、夕飯の匂いで満ちていた。
煮物の湯気。
炊きたてのご飯。
柔らかな灯り。
「ママ、にがい」
娘が薬の袋を握りしめ、顔をしかめる。
「うん、ちょっと苦いね」
美咲はコップを差し出す。
「お水、飲もう」
小さな喉がごくりと鳴る。
「えらいね」
頭を撫でる。
その指先に、熱はもうない。
テーブルの上には、レシート。
薬代。
食材。
学用品。
どれも派手ではない。
ただ、必要なもの。
美咲は通帳を開く。
振込欄に並ぶ数字。
二十四万円。
それは復讐の証ではない。
生活の土台。
スマートフォンが震える。
拓也からだ。
「なんだよ、毎月毎月」
不機嫌な声。
「足りないとか言うなよ」
「言わない」
美咲は淡々と答える。
「決まった額を受け取っているだけ」
「お前、いい気なもんだな」
「いい気じゃない」
娘が美咲の袖を引く。
「ママ、絵本読んで」
「うん、待ってね」
拓也が鼻で笑う。
「楽して暮らしてるんだろ」
楽。
その言葉に、わずかに胸が揺れる。
だが声は揺れない。
「これは贅沢じゃない。生活よ」
一瞬、沈黙。
「なんだと?」
「あなたと同じ水準で生きるための費用」
静かに、はっきりと。
「娘の薬。食事。学校」
「俺だって生活がある」
「あなたの生活は、守られているでしょう」
家も、車も、仕事も。
「私たちも守られるべきなの」
電話口の向こうで、舌打ち。
「ふざけるな」
「ふざけていない」
娘が笑う声が、背後で弾ける。
その無邪気な音が、部屋の空気を温める。
拓也の沈黙が、長くなる。
かつては、彼の機嫌が家の空気を支配していた。
今は違う。
「いつまで続ける気だ」
低い声。
「続けるんじゃない」
美咲は言う。
「あなたが父親でいる限り、続くの」
言葉は穏やかだ。
だが揺るがない。
電話が切れる。
美咲は娘の横に座る。
絵本を開く。
ページをめくる音。
柔らかな紙の感触。
娘が笑い、指で絵をなぞる。
「ママ、王様だって」
小さな声。
美咲は絵を見る。
金の冠をかぶった王様。
けれど、物語の最後では、王様は王座を失う。
「王様もね」
美咲は静かに言う。
「ちゃんと責任を取らないと、王様じゃいられないの」
「せきにん?」
「うん。大事なこと」
娘はよくわからないまま、うなずく。
窓の外、夜風が木を揺らす。
王様の生活は、削られていく。
けれどここには、削られないものがある。
温かいご飯。
安心して眠れる布団。
薬を飲ませる手。
それは派手ではない。
だが確かな、生活。
美咲は娘の額に口づける。
「大丈夫」
自分にも言い聞かせるように。
二十四万円。
それは奪う金ではない。
守るための、最低限。
王様は削られている。
けれどここでは、ただ静かに、正しく、生きている。
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