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第5話「悪意の遺棄」
第5話「悪意の遺棄」
調停室の空気は、これまでとは少し違っていた。
重い。
静かだが、張り詰めている。
拓也は今日、弁護士を連れてきていた。黒いスーツに細いネクタイ。机の上には分厚いファイル。
「本日は、奥様の別居が“悪意の遺棄”にあたるかどうかが争点です」
調停委員が静かに告げる。
拓也の弁護士が口を開いた。
「依頼人は、突然妻子に家を出ていかれました。話し合いの機会も与えられず、一方的に別居。これは民法上の悪意の遺棄に該当する可能性があります」
拓也は頷く。
「そうです。俺は追い出された側だ」
追い出された。
その言葉が、胸の奥をひやりと冷やす。
「生活費を止めると脅された、と仰っていますが、その証拠は?」
拓也の弁護士が視線を向ける。
美咲は、ゆっくり息を吸う。
緊張で指先が冷たい。
「あります」
静かな声。
弁護士が鞄から小さなレコーダーを取り出す。
「まず、録音です」
再生ボタンが押される。
スピーカーから、あの夜の声が流れ出す。
『誰が養ってやってると思ってる?』
拓也の声。
低く、はっきりと。
『寄生虫はさっさと出ていけ』
部屋の空気が凍る。
拓也の顔色が変わる。
「これは、夫婦喧嘩の一部で――」
弁護士が言いかける。
しかし音声は続く。
『子どもの熱? 知るか。俺は本物の仕事してるんだ』
娘の小さな泣き声が、かすかに混じる。
美咲の指先が机の下で強く握られる。
あの夜の匂いが蘇る。
香水。
汗。
熱い額。
再生が止まる。
沈黙。
調停委員の女性がゆっくり言う。
「ご主人、これは事実ですか」
拓也は口を開き、閉じる。
「……言葉のあやです」
「“寄生虫”という言葉も?」
返事はない。
弁護士が次の資料を差し出す。
「続いて、ホテル出入りの写真です」
机に並べられた写真。
日付。
時間。
拓也と、若い女性の後ろ姿。
ホテルの自動ドア。
「不貞行為が疑われる状況です」
「疑われるだけでしょう!」
拓也が声を荒げる。
「決定的な証拠じゃない!」
美咲の胸がどくりと鳴る。
だが弁護士は冷静だ。
「では最後に、ドライブレコーダーの音声を」
再び、再生。
車内のくぐもった音。
『あいつとはもう終わりだ。寄生虫なんて捨てて、お前と新居探すよ』
玲奈の笑い声。
『ほんと? ちゃんと離婚してよね』
車のウインカーの音。
そして、拓也の声。
『生活費なんて止めりゃ泣いて戻ってくる』
再生が止まる。
調停室の空気が、重く沈む。
拓也の顔は赤から青へと変わっていた。
「……プライベートの会話を勝手に録音するなんて」
震えた声。
「違法じゃないんですか」
弁護士が淡々と答える。
「当事者の会話です。証拠能力に問題はありません」
調停委員の男性が、眼鏡を外す。
「ご主人」
その声は低い。
「奥様が別居した理由は、あなたの発言および不貞行為に起因していると判断せざるを得ません」
「ちょっと待ってください!」
拓也が立ち上がりかける。
「俺が悪いって決めつけるんですか!」
「決めつけではありません」
女性委員が静かに言う。
「音声と写真、そしてこれまでの経緯から見て――」
一拍。
「奥様の別居は正当です」
その言葉が、はっきりと落ちる。
正当。
美咲の胸の奥に、ゆっくりと広がる。
あの夜、娘を抱えて出たこと。
震えながら玄関を閉めたこと。
あれは逃げではなかった。
正当。
拓也は椅子に沈み込む。
「……そんな」
声がかすれる。
「俺は……」
言葉が続かない。
弁護士が小声で何か囁くが、拓也の耳には届いていないようだった。
初めて。
本当に初めて。
拓也の目に、焦りではなく恐れが浮かぶ。
「婚姻費用の支払い義務は変わりません」
調停委員が告げる。
「むしろ、悪意の遺棄の主張は認められません」
拓也は机を見つめる。
そこに広がる算定表。
数字。
義務。
責任。
美咲は、ゆっくりと息を吐く。
震えはない。
怒りも、もう表に出ない。
ただ、静かな確信。
罵倒された夜の自分が、少しだけ救われる。
調停室の窓の外、冬の光が差し込む。
冷たいが、まっすぐな光。
拓也は、何も言えない。
完全に、劣勢だった。
王様は、もう玉座にいない。
法という床の上で、ただの一人の男になっている。
美咲は目を閉じる。
娘の笑い声を思い出す。
これは復讐ではない。
正しい場所に、正しく戻しただけ。
調停委員が静かに告げる。
「次回は支払方法について具体的に協議します」
拓也の肩が、小さく落ちる。
美咲は立ち上がる。
足元は、しっかりしている。
あの夜、揺れていた床とは違う。
今は、固い。
確かな、地面の上だった。
調停室の空気は、これまでとは少し違っていた。
重い。
静かだが、張り詰めている。
拓也は今日、弁護士を連れてきていた。黒いスーツに細いネクタイ。机の上には分厚いファイル。
「本日は、奥様の別居が“悪意の遺棄”にあたるかどうかが争点です」
調停委員が静かに告げる。
拓也の弁護士が口を開いた。
「依頼人は、突然妻子に家を出ていかれました。話し合いの機会も与えられず、一方的に別居。これは民法上の悪意の遺棄に該当する可能性があります」
拓也は頷く。
「そうです。俺は追い出された側だ」
追い出された。
その言葉が、胸の奥をひやりと冷やす。
「生活費を止めると脅された、と仰っていますが、その証拠は?」
拓也の弁護士が視線を向ける。
美咲は、ゆっくり息を吸う。
緊張で指先が冷たい。
「あります」
静かな声。
弁護士が鞄から小さなレコーダーを取り出す。
「まず、録音です」
再生ボタンが押される。
スピーカーから、あの夜の声が流れ出す。
『誰が養ってやってると思ってる?』
拓也の声。
低く、はっきりと。
『寄生虫はさっさと出ていけ』
部屋の空気が凍る。
拓也の顔色が変わる。
「これは、夫婦喧嘩の一部で――」
弁護士が言いかける。
しかし音声は続く。
『子どもの熱? 知るか。俺は本物の仕事してるんだ』
娘の小さな泣き声が、かすかに混じる。
美咲の指先が机の下で強く握られる。
あの夜の匂いが蘇る。
香水。
汗。
熱い額。
再生が止まる。
沈黙。
調停委員の女性がゆっくり言う。
「ご主人、これは事実ですか」
拓也は口を開き、閉じる。
「……言葉のあやです」
「“寄生虫”という言葉も?」
返事はない。
弁護士が次の資料を差し出す。
「続いて、ホテル出入りの写真です」
机に並べられた写真。
日付。
時間。
拓也と、若い女性の後ろ姿。
ホテルの自動ドア。
「不貞行為が疑われる状況です」
「疑われるだけでしょう!」
拓也が声を荒げる。
「決定的な証拠じゃない!」
美咲の胸がどくりと鳴る。
だが弁護士は冷静だ。
「では最後に、ドライブレコーダーの音声を」
再び、再生。
車内のくぐもった音。
『あいつとはもう終わりだ。寄生虫なんて捨てて、お前と新居探すよ』
玲奈の笑い声。
『ほんと? ちゃんと離婚してよね』
車のウインカーの音。
そして、拓也の声。
『生活費なんて止めりゃ泣いて戻ってくる』
再生が止まる。
調停室の空気が、重く沈む。
拓也の顔は赤から青へと変わっていた。
「……プライベートの会話を勝手に録音するなんて」
震えた声。
「違法じゃないんですか」
弁護士が淡々と答える。
「当事者の会話です。証拠能力に問題はありません」
調停委員の男性が、眼鏡を外す。
「ご主人」
その声は低い。
「奥様が別居した理由は、あなたの発言および不貞行為に起因していると判断せざるを得ません」
「ちょっと待ってください!」
拓也が立ち上がりかける。
「俺が悪いって決めつけるんですか!」
「決めつけではありません」
女性委員が静かに言う。
「音声と写真、そしてこれまでの経緯から見て――」
一拍。
「奥様の別居は正当です」
その言葉が、はっきりと落ちる。
正当。
美咲の胸の奥に、ゆっくりと広がる。
あの夜、娘を抱えて出たこと。
震えながら玄関を閉めたこと。
あれは逃げではなかった。
正当。
拓也は椅子に沈み込む。
「……そんな」
声がかすれる。
「俺は……」
言葉が続かない。
弁護士が小声で何か囁くが、拓也の耳には届いていないようだった。
初めて。
本当に初めて。
拓也の目に、焦りではなく恐れが浮かぶ。
「婚姻費用の支払い義務は変わりません」
調停委員が告げる。
「むしろ、悪意の遺棄の主張は認められません」
拓也は机を見つめる。
そこに広がる算定表。
数字。
義務。
責任。
美咲は、ゆっくりと息を吐く。
震えはない。
怒りも、もう表に出ない。
ただ、静かな確信。
罵倒された夜の自分が、少しだけ救われる。
調停室の窓の外、冬の光が差し込む。
冷たいが、まっすぐな光。
拓也は、何も言えない。
完全に、劣勢だった。
王様は、もう玉座にいない。
法という床の上で、ただの一人の男になっている。
美咲は目を閉じる。
娘の笑い声を思い出す。
これは復讐ではない。
正しい場所に、正しく戻しただけ。
調停委員が静かに告げる。
「次回は支払方法について具体的に協議します」
拓也の肩が、小さく落ちる。
美咲は立ち上がる。
足元は、しっかりしている。
あの夜、揺れていた床とは違う。
今は、固い。
確かな、地面の上だった。
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