『はんこは押さない 〜「誰が養ってやってる?」と言った夫へ、判決です〜』

かおるこ

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第7話「二十四万円の正体」

第7話「二十四万円の正体」

 テーブルの上に、白い紙が並んでいる。

 計算式。
 数字。
 区役所のサイトから印刷した生活保護費の内訳。

 娘は色鉛筆を転がしながら聞いた。

「ママ、なにしてるの?」

「お金の勉強」

「お金?」

 美咲は通帳を開く。

 今月の婚姻費用、二十四万円。

 振込記録が、はっきりと残っている。

「ねえ、ママ」

 娘が首をかしげる。

「パパのお金って、いっぱいなの?」

 一瞬だけ、胸がちくりとする。

「いっぱいかどうかじゃないの」

 美咲は紙を指でなぞる。

「必要な分があるかどうか」

 印刷された数字。

 生活扶助 119,309円。
 母子加算 18,800円。
 児童加算 10,190円。
 教育扶助 3,400円。
 特例加算 3,000円。
 住宅扶助 64,000円。

 合計 218,699円。

 二十一万八千六百九十九円。

 美咲は小さく息を吐く。

「二十四万円ってね」

「うん」

「高いように見えるよね」

「うん」

 娘はよくわからないまま頷く。

「でもね」

 美咲はゆっくり言葉を選ぶ。

「医療費が無料だったり、家賃の補助があったり、そういう制度を入れたら」

 指先で、二つの数字を並べる。

 218,699円。
 240,000円。

「そんなに変わらないの」

「え?」

「生活するのに必要な、最低限」

 娘は目を丸くする。

「じゃあ、パパのお金、すごくないの?」

 美咲は笑う。

「すごいかどうかは別」

 湯気の立つ味噌汁の匂いが、部屋に広がる。

「これは贅沢じゃない。生活よ」

 自分に言い聞かせるように、静かに。

 その頃。

 拓也は会社帰りのコンビニで立ち止まっていた。

 手に取った高級弁当を、そっと棚に戻す。

「……高い」

 隣の棚の割引シールを見つめる。

 レジ袋の音が、やけに耳に響く。

 スマートフォンが震える。

 玲奈だ。

「ねえ、今度の旅行どうする?」

「旅行?」

「前に言ってたじゃん。温泉」

 拓也は言葉に詰まる。

「今は、ちょっと」

「また“ちょっと”? なんなの最近」

 苛立った声。

「お金、そんなにないの?」

 沈黙。

「まさか、まだ払ってるの?」

「……義務だ」

「義務、義務って」

 玲奈が笑う。

「奥さんの生活、そんなに守りたいわけ?」

 拓也の胸に、じわりと苛立ちが広がる。

「守りたいとかじゃない」

「じゃあ何?」

「法律だ」

 その言葉が、やけに重い。

 夜風が冷たい。

 俺はエリートのはずだった。

 年収一千五百万。

 それでも、二十四万円で揺れる。

 その一方で。

 美咲は娘に牛乳を注ぐ。

「ほら、あったかいよ」

「おいしい」

 娘が笑う。

 その笑顔のための二十四万円。

 通帳を閉じる音が、静かに響く。

「ママ」

「なあに」

「パパ、怒ってる?」

 美咲は少しだけ考える。

「怒ってるかもしれない」

「なんで?」

「自分のお金だと思ってたから」

「ちがうの?」

 美咲は娘の目を見る。

「家族のお金だったの」

 言葉にすると、はっきりする。

 二十四万円。

 高いように見える。

 けれど、医療費も家賃も自分で払えば、ほとんど同じ。

 ただ、今は。

 支払う側と受け取る側が逆転しただけ。

 拓也が電話をかけてくる。

「なあ」

 疲れた声。

「二十四万って、やっぱ高すぎないか?」

「算定表よ」

「俺の生活、きついんだ」

「生活はきついものよ」

 静かな返答。

「あなたと同じ水準で、私たちも生きているだけ」

「……生活保護みたいじゃないか」

 その言葉に、美咲はわずかに息を吸う。

「そうね」

 否定しない。

「医療補助を入れたら、ほとんど同じ」

「は?」

「だから高くない」

 声は揺れない。

「最低限よ」

 沈黙。

 電話の向こうで、息が荒い。

「俺はもっと上の生活をするはずだった」

「誰と?」

 一瞬の静寂。

「……」

「上って、どこ?」

 答えは返ってこない。

 美咲は娘の髪を撫でる。

「生活ってね」

 娘に向かって言う。

「豪華なレストランでも、ブランドバッグでもないの」

「うん」

「薬があって、ご飯があって、学校に行けること」

 娘は小さく笑う。

「それならあるね」

「あるね」

 二十四万円。

 それは王様の贅沢ではない。

 家族の最低限。

 拓也の声が、かすかに震える。

「……俺は、エリートのはずだった」

「あなたは父親よ」

 美咲は言う。

「それだけで十分」

 電話が切れる。

 部屋には、湯気と笑い声。

 二十四万円は、高くない。

 ただ、現実の重さを測る数字。

 王様の金ではなく、生活の金。

 美咲は小さく呟く。

「これは贅沢じゃない。生活よ」

 その言葉が、部屋の空気を静かに満たした。
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