『はんこは押さない 〜「誰が養ってやってる?」と言った夫へ、判決です〜』

かおるこ

文字の大きさ
9 / 16

第8話「社会的転落」

第8話「社会的転落」

 社内メールが回ったのは、月曜の朝だった。

 件名:新規海外案件プロジェクト体制変更について。

 拓也はコーヒーを片手に、何気なく画面を開く。

 ――プロジェクトリーダー:佐伯
 ――サブリーダー:柳沢 → 外れる

 一瞬、意味が理解できなかった。

「……外れる?」

 隣の席の後輩が小さく言う。

「あ、柳沢さん……」

「何だ」

「体制変更、出てます」

 知っている。

 今、見た。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 部長室に呼ばれた。

 ドアの向こう、重い空気。

「柳沢君」

 部長は書類から目を上げない。

「今回の件だが」

「納得いきません」

 言葉が先に出た。

「俺はこの案件、最初から――」

「君は今、社内で“リスク要員”だ」

 その言葉が、空気を裂く。

「裁判所からの給与差押命令。管理職候補としてはマイナスだ」

「家庭の問題です」

「会社に届いた時点で、会社の問題だ」

 静かな声。

 冷たい。

「しばらくは内勤中心で頼む」

 王座が、音を立てて崩れる。

 廊下に出た瞬間、足元が少し揺れた。

 俺はエリートのはずだった。

 海外案件。
 年収一千五百万。
 部下を率いる立場。

 なのに。

 デスクに戻ると、視線が刺さる。

 ひそひそ声。

「差し押さえってマジ?」

「奥さんに訴えられたらしいよ」

 耳を塞ぎたくなる。

「仕事しろ」

 低く言うが、誰も怯えない。

 もう、声に力がない。

 ***

 その夜。

 玲奈のマンション。

 白い壁、香水の甘い匂い。

「プロジェクト外された?」

 玲奈がスマホをいじりながら聞く。

「誰から聞いた」

「噂。早いよ、そういうの」

 爪に塗った赤いネイルが、照明を反射する。

「一時的だ」

「へえ」

 軽い返事。

「給料も減るの?」

「減らない」

「でも差し押さえはあるんでしょ」

 心臓が、どくんと鳴る。

「義務だからな」

「義務、義務ってさ」

 玲奈が立ち上がる。

「ねえ、私、未来が見えない男に時間使いたくないんだけど」

「何が言いたい」

 玲奈はため息をつく。

「金のない男に興味ない」

 言葉が、静かに突き刺さる。

「は?」

「最初はさ、エリートで、余裕あって、カッコよかった」

 視線が冷たい。

「でも今、ただの疲れたおじさん」

 拓也の喉が乾く。

「俺はまだ――」

「まだ、何?」

 玲奈はバッグを手に取る。

「奥さんに給料差し押さえられて、社内評価落ちて、私と再婚もできない男?」

 沈黙。

「ごめんね」

 謝罪の響きはない。

「私は上を目指したいの」

 ドアが閉まる。

 香水の匂いだけが残る。

 拓也はソファに崩れ落ちる。

 静まり返った部屋。

 時計の秒針。

 スマホの暗い画面。

 俺はエリートのはずだった。

 なのに。

 冷蔵庫を開ける。

 何もない。

 棚の奥から、カップ麺を取り出す。

 ポットの湯が、ぼこぼこと音を立てる。

 三分。

 ふやけた麺。

 安いスープの匂い。

 一口すする。

 塩辛い。

 虚しい。

 以前なら、こんな夜はなかった。

 高級店。
 笑い声。
 ワインの香り。

 今は、静かな部屋と、安い麺。

 俺はエリートのはずだった。

 箸を持つ手が、震える。

 ***

 その頃。

 美咲の部屋には、蛍光灯の白い光。

 机の上にテキストが広がる。

 法律条文。
 問題集。
 付箋。

 娘は隣で宿題。

「ママ、難しいの?」

「うん、ちょっとね」

 ペンを走らせる音。

 紙の擦れる感触。

 美咲は問題を読み上げる。

「“婚姻費用の分担は――”」

 小さく笑う。

 皮肉だ。

「ママ、なんで勉強するの?」

 娘が聞く。

 美咲はペンを止める。

「自分で立つため」

「パパのお金あるのに?」

 美咲は首を振る。

「これは復讐じゃない。再建」

 静かな声。

「再建?」

「うん。壊れたものを、もう一度立て直すの」

 娘はうなずく。

「ママ、がんばれ」

 小さな応援。

 胸の奥が温かくなる。

 外では風が吹く。

 王様は王座を失い、孤独な部屋で麺をすする。

 ここでは、静かに積み上げる音がする。

 ページをめくる音。

 ペン先が走る音。

 未来へ続く、小さな音。

 美咲はテキストに目を落とす。

 数字は冷たい。

 だが、その先にあるのは、自分の足で立つ景色。

「再建よ」

 もう一度、小さく呟く。

 差し押さえは、終わりではない。

 崩れた王様と、立ち上がる母。

 同じ夜の下で、まったく違う未来が動き出していた。

感想 0

あなたにおすすめの小説

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる

椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。 その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。 ──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。 全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。 だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。 「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」 その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。 裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…