『はんこは押さない 〜「誰が養ってやってる?」と言った夫へ、判決です〜』

かおるこ

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第9話「第三者」

第9話「第三者」

 封筒は、思っていたより薄かった。

 白い。
 ただの白い封筒。

 だがその中身は、静かに人の人生を揺らす。

 美咲は封を指でなぞる。
 紙の乾いた感触。
 わずかにインクの匂い。

「これで、いいんですね」

 弁護士が頷く。

「不貞行為の証拠は十分です。相場から見ても、三百万は妥当でしょう」

「三百万……」

 口に出すと、数字が空気に重く沈む。

「支払い能力もあります。勤務先も把握しています」

 淡々とした声。

「感情ではなく、権利の行使です」

 美咲はゆっくり息を吐く。

 復讐ではない。

 清算。

 ***

 数日後。

 玲奈のスマートフォンに届いた、内容証明。

 赤い判が押された紙。

 “慰謝料請求”。

「なにこれ……」

 震える声。

 その夜、玲奈は拓也に電話をかけた。

「どういうこと?」

「何が」

「慰謝料請求って!」

 高い声が、受話器越しに響く。

「三百万って何!?」

 拓也は黙る。

「奥さんから来たのよ!」

「……」

「どういうことなの!」

「不貞行為の責任だ」

 絞り出すような声。

「は? なんで私が払うのよ!」

「俺にも来てる」

 沈黙。

「嘘でしょ」

 玲奈の呼吸が荒い。

「あなたがちゃんと離婚してくれるって言ったから」

「してない」

「してないじゃない!」

 声が裏返る。

「私、被害者じゃない!」

「被害者?」

 拓也の声が低くなる。

「俺の家庭に入ってきたのは誰だ」

「あなたが誘ったんでしょ!」

 電話口で何かが倒れる音。

 ガラスのコップかもしれない。

 ***

 翌日。

 喫茶店。

 玲奈は美咲の向かいに座っていた。

 カップの中のコーヒーは、ほとんど減っていない。

「……本気なんですか?」

 声がかすれる。

「本気です」

 美咲は視線を逸らさない。

 店内には、甘いコーヒーと焼き菓子の匂い。

 午後の静かな光。

「三百万なんて、払えません」

「分割も可能です」

 淡々とした声。

「あなたがしたことの責任です」

「私は、騙されてたんです」

 玲奈の目が潤む。

「奥さんとうまくいってないって」

「だからといって」

 美咲はゆっくり言う。

「既婚者と関係を持っていい理由にはならない」

「あなたは強いですね」

 玲奈が笑う。

 自嘲の混じった笑い。

「強くない」

 即答。

「壊れただけ」

 静かな言葉。

 玲奈は黙る。

「私、あなたに何もしてない」

「娘の父親を奪おうとした」

 その一言に、玲奈の肩が震える。

「あなたは自由を選んだ」

 美咲の声は低い。

「自由には値段がある」

「……三百万が、その値段?」

「安いと思う」

 玲奈の目が見開かれる。

「あなたが奪おうとした時間は、もっと高い」

 娘の寝息。
 高熱の夜。
 離婚届。

 胸の奥が、じわりと熱くなる。

 だが涙は出ない。

「あなた、私を恨んでるんでしょ」

 玲奈が言う。

「恨んでいない」

「じゃあ何」

「清算」

 静かな声。

「私はあなたを罰したいわけじゃない」

「じゃあなんで」

「線を引くため」

 店内の時計が鳴る。

 カチ、と小さな音。

「二度と、私の生活に入ってこないように」

 玲奈の唇が震える。

「……払えない」

「払ってください」

 感情の波はない。

 ただ事実。

「分割で」

 玲奈の声は小さい。

「それでも、払ってください」

 しばらく沈黙が続く。

 コーヒーの湯気が消えていく。

「……わかりました」

 かすれた声。

「分割で」

 美咲は小さく頷く。

 勝利の高揚はない。

 ただ、終わりに近づいた感覚。

 ***

 その夜。

 拓也の部屋。

 静まり返ったリビング。

 スマートフォンの画面に、玲奈からのメッセージ。

《払うことにした》

 短い文。

 拓也は目を閉じる。

 俺はエリートのはずだった。

 だが今は、二人の女性に請求される男。

 誇りは、どこで落としたのか。

 ***

 美咲は机に座る。

 通帳。
 分割支払の合意書。

 ペンを置く。

「ママ」

 娘が眠そうに目をこする。

「終わったの?」

「うん」

「パパ、怒ってる?」

「たぶん」

「怖い?」

 美咲は微笑む。

「もう怖くない」

 娘を抱きしめる。

 小さな体温。

 確かな鼓動。

 慰謝料は復讐ではない。

 奪われかけた時間の、対価。

 線引き。

 境界。

 美咲は静かに呟く。

「これで終わり」

 雨は降っていない。

 夜は、ただ静かに更けていく。

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