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【第3話】紙の上の死、現実の生
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市役所の窓口は、朝から湿り気を帯びた苛立ちに満ちていた。
冷房の効きが悪い待合室には、番号札を握りしめた市民の溜息が滞留している。
市民課二係の若手職員、坂上誠司は、山積みになった「居住実態調査対象者」のファイルに目を落としていた。指先が書類の端をめくるたび、古い紙特有の、カビと埃が混じったような匂いが鼻をつく。
「……坂上くん、まだその案件で止まってるのか?」
背後から声をかけたのは、主任の伊庭だ。伊庭のデスクからは、いつも淹れたてのコーヒーの香りと、効率を追求する乾いた空気が漂ってくる。
「あ、はい。八尾市末広町の……この『岩本ハナ』という女の子なんですけど」
「ああ、あの長屋か。確か、住所地には曽祖母しかいなくて、本人たちの姿はないっていう報告だったな」
「そうなんです。でも、現地の聞き込みでは『子供を見た』という声も微かにあるんです。もし、本当にどこかで暮らしているとしたら、今ここで住民票を消してしまうのは……」
誠司が言い終わらないうちに、伊庭は短い溜息をついて隣に椅子を引いた。
「坂上くん。僕たちの仕事は何だ? 住民基本台帳を『適正に』管理することだよ。いない人間に住民税の通知を出し続け、健診の案内を送り、返送されてくるのを放置する。そのコストがどれだけ無駄か考えてみたことはあるか?」
「それは分かります。でも、消してしまったら、この子は公的なサービスを一切受けられなくなります。学校にも、病院にも……」
「だからこそだよ。転居届を出さずに消えた家族が悪いんだ。ルールに従わない人間を追いかけ回すのが行政じゃない。居住実態がない。現地調査でも確認できない。なら、職権で消除する。これは『悪』じゃない、『整理』だよ」
伊庭は誠司の手元からハナのファイルを取り上げると、無造作にデスクに広げた。
「ほら、見てごらん。この祖父からの申し出もある。『孫はもうここにはいない、どこへ行ったか知らない』と署名があるだろう。身内がそう言ってるんだ。これ以上の深追いは、権限の逸脱だ」
誠司は、ファイルの隅に貼られた、ハナの出生届の写しを見つめた。
そこには、赤ん坊の頃に押されたであろう、歪な足形が薄く残っている。
かつて、確かにこの世界に誕生し、祝福されたはずの命。
「……判、押しますよ。リストはあと百件以上あるんだ。今日中に終わらせないと、上の決済が間に合わない」
伊庭が差し出したのは、冷たい朱肉の匂いがする認印だった。
誠司の視界が、ふっと二つに割れる。
片方は、蛍光灯の下、冷房の音だけが響く静かな事務室。
もう片方は、西日が差し込み、埃が舞う暗い長屋の一角。
誠司が震える手で朱肉をつけたその瞬間、長屋の奥では、ハナが色あせた赤い長靴を両手に持って、廊下を這っていた。
「おかあさん、にじ、でないね」
ハナは呟く。今日は雨が降っていないから、志乃おばちゃんの水撒きもない。
外からは、下校する小学生たちの楽しげな笑い声と、防犯ブザーの試験放送が聞こえてくる。
「……よし、これで完了だ」
誠司が「職権消除」の欄に、真っ赤な判を力任せに押しつけた。
**ガシャン。**
重い金属音が事務室に響く。
その瞬間、ハナの家では、不思議なことが起きた。
窓の外を通り過ぎるランドセルの足音が、ハナの耳に、まるで遠い異国の言語のように聞こえ始めたのだ。
彼女を学校へと呼ぶはずだった目に見えない糸が、プツリと断ち切られた。
「次は、この書類の破棄だ。個人情報だから徹底してくれ」
伊庭が指示を出す。誠司は立ち上がり、大型のシュレッダーの前へ向かった。
**シュルシュルシュル……**
鋭利な刃が回転を始める。
誠司がハナの名前が書かれた通知書の控えを投入口に差し込む。
**バリバリバリ、バリバリバリ!**
紙が細かく切り刻まれる音。
それは、ハナという少女が社会と繋がっていた最後の血管を、無機質な刃が寸断していく音だった。
「あ……」
長屋の中で、ハナが急に自分の胸を書きむしった。
苦しいわけではない。ただ、急に自分が、透き通ってしまったような感覚。
「お母さん……ハナ、ここに、いるよ」
鏡の中の自分を見つめる。
けれど、そこには「岩本ハナ」という市民はもういなかった。
健康診断の通知も来ない。
予防接種の案内も来ない。
小学校の入学通知も、彼女の元へは絶対に届かない。
彼女は、生きながらにして「死者」になったのだ。
紙の上の死は、現実の生をじわじわと侵食していく。
もし彼女が今、ここで叔父に殴られて悲鳴をあげても、役所のデータベースに彼女の名前はない。警察が戸籍を照合しても、彼女の現住所は「消除」の一言で片付けられる。
「お疲れ様。坂上くん、これでまた一つ、台帳が綺麗になったな」
伊庭が満足げにコーヒーを啜る。
シュレッダーのダストボックスには、ハナの夢も、ハナの名前も、ハナの足形も、判別不能な白いクズとなって積もっていく。
誠司は、窓の外を見た。
夕焼けが街を赤く染めている。
あの赤い光の中に、今、自分が「消した」子供が一人で立っているような気がして、彼は強く目を閉じた。
手のひらに残った朱肉の汚れが、どうしても落ちない。
それは、ハナが最後に流した、透明な涙の色だった。
「……明日も、調査案件が来るから。早めに上がれよ」
誠司は返事もできず、ただ、シュレッダーが吐き出した紙の死骸を見つめていた。
自分が今日殺したのは、紙の上の記録ではない。
一人の少女の、世界との接点そのものだった。
その夜。
長屋の暗闇で、ハナは赤い長靴を抱いて眠りについた。
彼女が次に目覚める時、彼女はもう、誰にも見つけてもらえない「幽霊」になっていた。
行政という名の大きな消しゴムが、彼女の輪郭を完全に消し去った、初めての夜だった。
(第三話 完)
冷房の効きが悪い待合室には、番号札を握りしめた市民の溜息が滞留している。
市民課二係の若手職員、坂上誠司は、山積みになった「居住実態調査対象者」のファイルに目を落としていた。指先が書類の端をめくるたび、古い紙特有の、カビと埃が混じったような匂いが鼻をつく。
「……坂上くん、まだその案件で止まってるのか?」
背後から声をかけたのは、主任の伊庭だ。伊庭のデスクからは、いつも淹れたてのコーヒーの香りと、効率を追求する乾いた空気が漂ってくる。
「あ、はい。八尾市末広町の……この『岩本ハナ』という女の子なんですけど」
「ああ、あの長屋か。確か、住所地には曽祖母しかいなくて、本人たちの姿はないっていう報告だったな」
「そうなんです。でも、現地の聞き込みでは『子供を見た』という声も微かにあるんです。もし、本当にどこかで暮らしているとしたら、今ここで住民票を消してしまうのは……」
誠司が言い終わらないうちに、伊庭は短い溜息をついて隣に椅子を引いた。
「坂上くん。僕たちの仕事は何だ? 住民基本台帳を『適正に』管理することだよ。いない人間に住民税の通知を出し続け、健診の案内を送り、返送されてくるのを放置する。そのコストがどれだけ無駄か考えてみたことはあるか?」
「それは分かります。でも、消してしまったら、この子は公的なサービスを一切受けられなくなります。学校にも、病院にも……」
「だからこそだよ。転居届を出さずに消えた家族が悪いんだ。ルールに従わない人間を追いかけ回すのが行政じゃない。居住実態がない。現地調査でも確認できない。なら、職権で消除する。これは『悪』じゃない、『整理』だよ」
伊庭は誠司の手元からハナのファイルを取り上げると、無造作にデスクに広げた。
「ほら、見てごらん。この祖父からの申し出もある。『孫はもうここにはいない、どこへ行ったか知らない』と署名があるだろう。身内がそう言ってるんだ。これ以上の深追いは、権限の逸脱だ」
誠司は、ファイルの隅に貼られた、ハナの出生届の写しを見つめた。
そこには、赤ん坊の頃に押されたであろう、歪な足形が薄く残っている。
かつて、確かにこの世界に誕生し、祝福されたはずの命。
「……判、押しますよ。リストはあと百件以上あるんだ。今日中に終わらせないと、上の決済が間に合わない」
伊庭が差し出したのは、冷たい朱肉の匂いがする認印だった。
誠司の視界が、ふっと二つに割れる。
片方は、蛍光灯の下、冷房の音だけが響く静かな事務室。
もう片方は、西日が差し込み、埃が舞う暗い長屋の一角。
誠司が震える手で朱肉をつけたその瞬間、長屋の奥では、ハナが色あせた赤い長靴を両手に持って、廊下を這っていた。
「おかあさん、にじ、でないね」
ハナは呟く。今日は雨が降っていないから、志乃おばちゃんの水撒きもない。
外からは、下校する小学生たちの楽しげな笑い声と、防犯ブザーの試験放送が聞こえてくる。
「……よし、これで完了だ」
誠司が「職権消除」の欄に、真っ赤な判を力任せに押しつけた。
**ガシャン。**
重い金属音が事務室に響く。
その瞬間、ハナの家では、不思議なことが起きた。
窓の外を通り過ぎるランドセルの足音が、ハナの耳に、まるで遠い異国の言語のように聞こえ始めたのだ。
彼女を学校へと呼ぶはずだった目に見えない糸が、プツリと断ち切られた。
「次は、この書類の破棄だ。個人情報だから徹底してくれ」
伊庭が指示を出す。誠司は立ち上がり、大型のシュレッダーの前へ向かった。
**シュルシュルシュル……**
鋭利な刃が回転を始める。
誠司がハナの名前が書かれた通知書の控えを投入口に差し込む。
**バリバリバリ、バリバリバリ!**
紙が細かく切り刻まれる音。
それは、ハナという少女が社会と繋がっていた最後の血管を、無機質な刃が寸断していく音だった。
「あ……」
長屋の中で、ハナが急に自分の胸を書きむしった。
苦しいわけではない。ただ、急に自分が、透き通ってしまったような感覚。
「お母さん……ハナ、ここに、いるよ」
鏡の中の自分を見つめる。
けれど、そこには「岩本ハナ」という市民はもういなかった。
健康診断の通知も来ない。
予防接種の案内も来ない。
小学校の入学通知も、彼女の元へは絶対に届かない。
彼女は、生きながらにして「死者」になったのだ。
紙の上の死は、現実の生をじわじわと侵食していく。
もし彼女が今、ここで叔父に殴られて悲鳴をあげても、役所のデータベースに彼女の名前はない。警察が戸籍を照合しても、彼女の現住所は「消除」の一言で片付けられる。
「お疲れ様。坂上くん、これでまた一つ、台帳が綺麗になったな」
伊庭が満足げにコーヒーを啜る。
シュレッダーのダストボックスには、ハナの夢も、ハナの名前も、ハナの足形も、判別不能な白いクズとなって積もっていく。
誠司は、窓の外を見た。
夕焼けが街を赤く染めている。
あの赤い光の中に、今、自分が「消した」子供が一人で立っているような気がして、彼は強く目を閉じた。
手のひらに残った朱肉の汚れが、どうしても落ちない。
それは、ハナが最後に流した、透明な涙の色だった。
「……明日も、調査案件が来るから。早めに上がれよ」
誠司は返事もできず、ただ、シュレッダーが吐き出した紙の死骸を見つめていた。
自分が今日殺したのは、紙の上の記録ではない。
一人の少女の、世界との接点そのものだった。
その夜。
長屋の暗闇で、ハナは赤い長靴を抱いて眠りについた。
彼女が次に目覚める時、彼女はもう、誰にも見つけてもらえない「幽霊」になっていた。
行政という名の大きな消しゴムが、彼女の輪郭を完全に消し去った、初めての夜だった。
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