『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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【第4話】閉ざされた箱庭の軋み

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春。外では、真新しい制服に身を包んだ子供たちが、桜の下を誇らしげに歩いていた。
けれど、淡黄色の長屋の扉に、入学を祝う郵便物が届くことはなかった。去年の今頃、坂上誠司が押し下げた「消除」の判が、ハナの未来に繋がるはずの道を完全に塞いでいた。

ハナは六歳になった。
狭い廊下の隅で、彼女は「宝物」の石を並べていた。それは、かつて志乃おばちゃんの虹を追いかけていた時に見つけた、雲母が混じった小さな白い石だ。光に当てると、そこだけが宇宙のようにキラキラと瞬く。

「……はな、がっこう、いきたいな」

小さく零した言葉が、廊下を這う冷たい空気に溶けていく。
学校という場所がどんなところか、彼女は知らない。けれど、窓の外から聞こえる子供たちの嬌声や、リズミカルな足音の響きが、そこには「自分がいないことになっていない世界」があることを教えていた。

「おい、ハナ。何ブツブツ言うとるんや」

背後から、重く濁った声がした。叔父の隆志だ。
酒の匂いと、安物の煙草の匂い。隆志が部屋に入ってくると、ハナの心臓は、捕らえられた鳥のように激しく胸の檻を叩く。

「……なんでもない」
ハナは慌てて石を隠そうとした。けれど、隆志の大きな手が、ハナの細い手首を掴み上げた。

「なんや、またゴミ拾ってきたんか。お前はほんまに、卑しいガキやな。こんなもん拾って喜んでるんは、お前が『いない人間』やからやぞ」

隆志はハナの手から石を奪い取ると、それを畳の上に放り投げた。
「外の奴らはな、お前のことなんかこれっぽっちも思てへん。お前がここで野垂れ死んでも、役所の紙には載らんのや。俺が、俺らがお前を食わせてやってるんや。感謝せなあかんやろ?」

隆志の瞳には、昏い優越感が宿っていた。
彼は社会で、誰からも敬われない底辺の暮らしをしていた。けれど、この長屋に一歩足を踏み入れれば、彼は全能の神になれた。誰も存在を知らない、誰にも守られていない、この小さな少女を支配することだけが、彼の歪んだ自尊心を支える唯一の糧だったのだ。

「ごめんなさい……叔父さん、痛い……」
「痛い? 痛いって言えるだけ幸せやと思え」

隆志の拳が、容赦なくハナの小さな肩に振り下ろされた。
ドン、という鈍い音が、古い長屋の壁を震わせる。
台所では、母が背を向けたまま、カチャカチャと食器を洗う音を立て続けている。
「お母さん……」
ハナの助けを求める視線が届く前に、母はさらに強く水を流した。その背中は、見聞きすることを拒絶する、冷たい防波堤のようだった。奥の部屋では、祖父がテレビの音を大きくしている。

家族の「沈黙」が、隆志の暴力をさらに加速させる。
「お前が泣くと、お巡りさんが来るやろ。俺らを刑務所に入れる気か。恩知らずめ」
隆志は、逃げようとするハナの髪を掴み、床に叩きつけた。ハナの視界が火花を散らす。

「あ……」

ハナの指先が、さっきの白い石に触れた。
彼女にとって、それは孤独な世界で唯一自分に味方してくれる「光の欠片」だった。
けれど、隆志の重い安全靴が、その上に容赦なく振り下ろされた。

**——パキィン。**

乾いた音を立てて、ハナの宝物が粉々に砕け散った。
「あ……ああっ……」
声にならない悲鳴が漏れる。石はただの砂利になり、キラキラとした瞬きも、暗い畳の中に吸い込まれて消えていった。

「なんや、そんなに大事やったんか? こんなゴミが」
隆志は嘲笑うように、砂になった石を靴の裏ですり潰した。
「お前もこの石と一緒や。ここで粉々になっても、誰も気づかへん。お前は『箱』の中の幽霊やねんからな」

隆志が立ち去った後、ハナは暗い廊下で動けずにいた。
体中の痛みよりも、自分の「魂」が、今さっき石と一緒に砕かれてしまったような、凍りつくような喪失感が彼女を支配していた。

窓の外では、夕暮れのチャイムが鳴っている。
「子供の皆さんは、おうちに帰りましょう」
スピーカーから流れる優しい声。
けれど、ハナが帰るべき「おうち」は、どこにもなかった。
ここは、自分を守ってくれる場所ではない。
自分を透明にし、ゆっくりと殺していくための、冷たい「箱」なのだ。

ハナは、粉々になった石の破片を、震える指でかき集めた。
けれど、どんなに集めても、もうそれは光を放たない。
ただの冷たい、ザラザラとした死骸だった。

ハナは気づいてしまった。
お母さんも、おじいちゃんも、この石を助けてはくれなかった。
そして、明日の朝も、同じ太陽が昇り、同じ地獄が始まるのだということを。

「……はな、もう、にじ、みられない」

彼女は、自分を抱きしめるように丸まった。
かつての赤い長靴は、もう小さくて履けなくなっていた。
彼女が大きくなればなるほど、この「箱」は彼女を圧迫し、呼吸を奪っていく。

六歳の春。
本来なら夢と希望に満ちているはずのその季節に、ハナは初めて「絶望」という言葉を、肌で、痛みで、そして砕かれた石の感触で理解した。
社会から消された少女の「箱庭」は、今、音を立てて軋み、崩れ始めていた。

(第四話 完)

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