『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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【第5話】沈黙の重低音

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【第5話】沈黙の重低音

季節は、また冬に向かっていた。
隙間風の吹く長屋の中で、ハナはもう虹を追いかける気力さえ失っていた。叔父の暴力は日常の「儀式」となり、ハナの体はあざと恐怖で常に強張っている。

ハナは、押し入れの隅で小さくなっていた。抱きしめているのは、もう足が入らなくなった、薄汚れた赤い長靴だ。
「ハナ、愛おしい……」
志乃おばちゃんがいつか掛けてくれた、優しい声が耳の奥でリフレインする。もし翼があったら。もしここから、あのおばちゃんが水を撒く虹の向こう側へ連れていってくれたら。

けれど、現実は無慈悲な重低音を響かせてやってくる。
隆志が酒に酔い、荒々しく玄関の扉を蹴り開けた。

「おい、ハナ! 何しとる、出てこい!」

ハナの小さな肩がびくんと跳ねる。押し入れの襖が乱暴に開けられ、隆志の太い腕がハナを暗闇から引きずり出した。
「お前、また俺の酒をこぼしたやろ。隠しても無駄やぞ」
「やってない……叔父さん、ハナ、やってないよ」
震える声で必死に訴える。けれど、隆志は聞く耳を持たない。彼にとって「ハナが悪い」ことは、暴力を振るうための免罪符に過ぎなかった。

「口答えするな! お前みたいな『いない人間』が、誰に口きいとるんや!」

激しい衝撃がハナの頭を襲った。
畳に叩きつけられ、視界が白く点滅する。耳の奥でキーンという高い音が鳴り、外の世界の音が遠のいていく。
母さんは、台所で耳を塞いで震えている。
おじいちゃんは、テレビのボリュームをさらに上げた。
誰も来ない。助けは来ない。

ハナは、薄れゆく意識の中で、床に転がった赤い長靴を見つめた。
(おばちゃん……ハナを、連れてって……)

隆志の怒声が、どこか遠い場所の出来事のように聞こえ始めた。
ハナの小さな心臓が、最期の力を振り絞って、トクン、トクンと刻まれる。
それは、社会から消された少女が、この世に残した最期の鼓動だった。
やがて、その音は静かに、深々と降り積もる雪のように止まった。

部屋に、恐ろしいほどの静寂が訪れた。

隆志は、動かなくなったハナの足先を蹴った。
「おい、起きろ。芝居すんな」
返事はない。ハナの瞳は開いたままで、そこにはもう、光も虹も映っていなかった。

「……死んだか」

隆志の呟きに、奥の部屋から母と祖父が這うようにして出てきた。
泣き叫ぶ者はいない。悲しむ者さえいない。
あるのは、「隠さなければならない」という底冷えのする恐怖だけだった。

「どうするんや、これ。警察呼んだら、わしら全員おしまいやぞ」
祖父の声が震える。
「……隠すしかないやろ。最初から、この家には誰もいなかったんやから」

隆志が立ち上がる。
外では、工場の夜勤が始まる重低音が、ズシン、ズシンと地面を揺らしている。その音に紛れるようにして、彼らは準備を始めた。
ホームセンターで買ってきた砂、セメント、そして水。

バケツの中で、灰色の泥が練られていく。
ハナが大好きだった虹の色とは正反対の、命を拒絶するような無機質な色。
ハナの体は、布に包まれ、床下へと下ろされた。

「ごめんな、ハナ」
母が一度だけ、掠れた声で言った。けれど、その手はセメントを流し込む隆志を手伝っていた。
湿ったコンクリートが、ハナの頬を、腕を、あの赤い長靴を、ゆっくりと飲み込んでいく。

ドロリとした重苦しい音が、数時間続いた。
やがて、床下には平らな灰色の地平線が出来上がった。
その上に畳が戻され、箪笥が置かれた。

外では、何も知らない志乃が、窓を叩く冷たい風の音を聞きながら、「ハナちゃん、寒くないかな」と案じていた。
しかし、ハナの時間は、六歳のまま、冷たく硬いコンクリートの底で永遠に凍りついた。

住民票を消され、
社会から忘れられ、
ついには物理的な質量の中に封じ込められた少女。

翌朝、淡黄色の長屋からは、いつも通り生活の音がし始めた。
テレビの音、食器の音。
けれど、そこに、水を撒く虹に笑う少女の気配は、二度と戻ることはなかった。

(第五話 完)

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