『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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【第7話】数字にされた子供たち

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【第7話】管轄外の輪郭

新聞社の編集局は、深夜二時を過ぎると、巨大な墓標のように静まり返る。
中堅記者の立花は、デスクの蛍光灯だけを点け、自治体から届いたファクスを一枚ずつシュレッダーにかけていた。

いや、正確には「処理」していた。
手元に残すのは、数字だけだ。
地名。日付。人数。
それ以外の一切の弁明を、立花は情報のノイズとして削ぎ落としていった。

「立花さん、コーヒー淹れ直しましたよ」

後輩記者が置いた紙コップから、焦げたような匂いが立ち昇る。
立花は礼も言わず、鏡のようなPCモニターに映る自分の顔を見た。
三日ほど剃っていない髭。充血した目。
自分もまた、この24時間のニュースサイクルという「システム」を回す、単なる歯車の一部に過ぎない。自分が見逃し、ゴミ箱へ捨ててきた「小さな声」が、これまでどれほどあっただろうか。
立花は一度席を立ち、トイレの洗面台で冷たい水を顔にぶつけた。鏡の中の男は、正義の味方などではなかった。ただの、執着心の強い記録係だ。

翌朝、立花は八尾市役所のロビーに立っていた。
坂上誠司は、約束の時間に五分遅れて現れた。彼のネクタイは、定規で測ったように真っ直ぐで、その清潔さがかえって異様に映った。

「坂上さん」

立花の声は、朝の湿った空気の中で低く響いた。
応接室に移動し、立花は一枚の資料を差し出した。それは、当時のハナの住民票の写しではない。ハナが消えたあとの、末広町一帯の「児童安否確認リスト」の写しだ。

「この子は、あなたの判のあと、どの部署の一覧にも出なくなったそうですね」

坂上は、差し出された紙に視線を落とした。
「……規定通りです。住民票がない人間を、安否確認の対象に含めることはできません。それは、他の自治体の業務になります」

「そうですか」
立花は追求しなかった。ただ、坂上の手元をじっと見つめた。
坂上のデスクには、よく手入れされた万年筆と、使い込まれた朱肉が置かれている。坂上は無意識に、その朱肉の蓋を指でなぞっていた。

「坂上さん、あなたの判が押されたあの日、この子の『体温』は、行政のサーバーから完全に消えた。以降、彼女がどこで誰に殴られていようと、この街のどのセンサーも反応しなくなった。それは、事務処理としては、完璧な仕事です」

坂上の指が止まった。
「……私は、ルールに従った。それ以外に、何ができると言うんですか。私の管轄は、あくまで台帳の適正化だ」

「管轄。いい言葉ですね」
立花は立ち上がり、資料を鞄に仕舞った。
「管轄の境界線。その隙間に落ちた子供は、誰の仕事でもなくなる。ただ、それだけのことだ」

社に戻った立花は、集計表の最後にひとつの数字を書き込んだ。

* A市:不明 8名
* B区:不明 3名
* C市:不明 11名
* ……

最後に、立花は「197」という数字を小さく丸で囲った。
叫びたい衝動を殺し、ただの「事実の総計」としてそこに置いた。

深夜、ゲラが刷り上がる。
インクと紙が擦れる特有の音が、静かなフロアに響く。
立花は出力されたばかりの紙を一枚、手に取った。
指先に、乾ききっていない黒いインクがべったりとついた。

立花はその黒い汚れを、拭おうとはしなかった。
かつて坂上の指を染めたのは、存在を消すための「赤」。
いま、立花の指を染めているのは、不在を記録するための「黒」。

どちらも、ハナという少女の血ではない。
ただの、冷たい、無機質な事務の色彩だ。

立花は椅子に深く腰掛け、暗い窓の外を見た。
街の灯りの数だけ、境界線がある。
その境界線の暗闇で、今夜も誰かが、呼吸を止める音を待っている。

(第七話 完)

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