『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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【第8話】残された靴のゆくえ

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アスファルトの隙間から、どこか懐かしい、そしてひどく不快な「雨上がりの泥」の匂いが立ち昇っていた。

大阪府八尾市、末広町の路地。
18年という月日は、淡黄色の長屋をただの「朽ちた廃屋」へと変えていた。その建物の周囲を、警察の規制テープが黄色い鎖のように囲んでいる。鑑識課員たちの白い防護服が、冬の薄い陽光を反射して、そこだけが異質な空間であることを物語っていた。

「……掘り起こすぞ」

短い号令とともに、床板を剥がすバールの音が響いた。バリッ、という乾いた破壊音。志乃は、向かいの自宅の玄関先に立ち、組んだ手を震わせながらその音を聞いていた。

「あかん、見たらあかん」

そう自分に言い聞かせても、目はブルーシートの隙間に吸い寄せられる。
18年前、あの床の上で何が行われていたのか。自分が「幸せな引っ越し」を信じ、呑気に茶を啜っていた間、あの子のすぐ隣で何が固まっていったのか。

「あ……」

作業員の手が止まった。
掘り起こされた土とコンクリートの破片の中から、何かが「色」を放ったからだ。
それは、どす黒い土にまみれてもなお、鮮やかに自己主張をやめない「赤」だった。

「靴です。子供用の、長靴……」

鑑識の手によって、それは静かに引き上げられた。
泥を払い、日の光にさらされたとき、それは志乃の記憶にある「あの夏」を強烈に引き戻した。
色あせ、表面がひび割れた、小さな赤い長靴。
あの日、ハナちゃんが志乃の撒く虹を追いかけ、ぴちゃぴちゃと音を立てて水たまりを踏んでいた、あの時の靴だ。

「……ハナちゃん」

志乃の膝が崩れた。
地面の冷たさがスカート越しに伝わってくるが、それ以上に、18年間の「沈黙」という罪の重さが彼女を押し潰そうとしていた。

「おばあさん。失礼ですが、当時のことを少しお聞かせいただけますか」

気がつくと、一人の刑事が志乃の横に屈み込んでいた。誠実そうな、けれど有無を言わせない鋭い瞳。志乃は震える唇を必死に抑え、刑事の差し出したハナの写真——出生時の、唯一の鮮明な記録——を見つめた。

「……あの子は、ここにいたんです」
志乃の声は、掠れた。
「みんな、引っ越したって……どこかええところへ、お母さんが迎えに来て、学校通てるんやって言うてました。私も、そうやと思うことにしたんです。でも、ほんまは分かってた」

「分かっていた、とは?」

「毎日、一羽の鳥みたいに、あの節穴から外を覗いてたんです。私と目が合うと、はにかんで……。あの子、自分の名前を、一生懸命に呼んでました。『はな、いうの』って。あれは、助けてって言うてたんや。私は、あの子に虹を見せてやるだけで、家の中の暗闇からは目を逸らした。あんなに、あんなに小さな靴を履いて、この土の下で一人ぼっちで……」

志乃は、赤い長靴を収めた証拠品袋を指差した。
「役所の人は、『そんな子はもうおらん』って言うたんやそうです。記録にもない、名前もないって。でも、あの子はここにいた。私が、あの子の体温を、笑い声を、この目と耳で覚えてるんです。記録なんかに、あの子を消させてたまるもんですか」

刑事は、志乃の言葉を一つも漏らさぬよう、手帳に書き留めていった。
冷たい行政の「消除」という文字。197人という「統計」。
それらが、一人の老婆の、涙に濡れた「記憶」によって、血の通った「一人の子供」の物語へと書き換えられていく。

「おばあさん。ありがとうございます。あなたの記憶がなければ、この靴もただのゴミとして処理されていたかもしれない」

刑事の言葉に、志乃は顔を覆って泣きじゃくった。
赤い長靴は、ハナが生きた最後の、そして唯一の「反論」だった。
コンクリートがどんなに重く、沈黙がどんなに長くとも、彼女がそこにいたという事実は、誰にも塗りつぶせない。

「ハナちゃん、やっと……やっと、その靴で歩けるね。お日様の下を」

志乃の撒いた打ち水が、冬の低い日差しを受けて、微かな、本当に微かな虹を作った。
それは、18年越しに、ハナの小さな足元に届けられた、この世界からのささやかな「おかえり」の合図だった。

行政の記録が「不在」を確定させた場所に、今、一人の少女の「生」の輪郭が、痛みを伴って鮮烈に立ち上がっていた。

(第八話 完)

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