『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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【第10話】その名は、空に還る

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法廷の空気は、これまでとは違っていた。

十八年という歳月の澱(おり)を、一つずつ掬い上げるような長い審理が終わりを告げようとしていた。被告人席の節子に言い渡されたのは、執行猶予のない実刑判決だった。けれど、その判決主文よりも重く、静かに響いたのは、裁判長が最後に添えた「言葉」だった。

「……本件において、最も看過できない事実は、被害児童の存在が十八年もの間、公的な記録から抹消されていたことにある。行政の手続きが、結果として虐待の隠れ蓑となり、命の叫びを封じ込める壁となった事実は、重く受け止められねばならない。本日、本法廷は、遺体として発見された女児を、当時の届出に基づき『岩本玲奈(れいな)』と認め、その名を戸籍に回復する手続きを認めるものとする」

玲奈。ハナと呼ばれ、幽霊のように扱われた少女の、本当の名前。

その瞬間、傍聴席にいた記者の立花は、万年筆を握る指先が熱くなるのを感じた。隣に座っていた坂上誠司は、膝の上で拳を固め、静かに頭を下げていた。
名前が戻ったからといって、失われた命が戻るわけではない。コンクリートの冷たさが消えるわけでもない。けれど、彼女は今、数字でも「不明者」でもない、一人の人間として、ようやくこの世界の記録に「還って」きたのだ。

閉廷後、立花は廊下で坂上に声をかけた。
「……坂上さん。これで終わりじゃないですね」
坂上はゆっくりと顔を上げた。その目は、かつての事務的な冷徹さを失い、ひどく赤んでいた。
「ええ。リストにある、残りの子供たちを探します。管轄だとか、規定だとか、そんな言葉で判を押す前に、その『名前』の向こう側にある体温を、確かめに行かなければならない」

立花の指には、まだゲラ刷りの黒いインクが薄く残っていた。
坂上の手には、もうあの赤い朱肉はない。
二人は、言葉少なげに別れた。それぞれの戦場へ、それぞれの「記録」を刻むために。

---

八尾の、あの路地には、冬が終わりを告げるような柔らかな風が吹いていた。

淡黄色の長屋はもう跡形もなくなり、そこは平らな更地になっていた。土は新しく入れ替えられ、かつて玲奈を封じ込めていたコンクリートの破片一つ落ちていない。

志乃は、いつものように玄関先に立ち、ホースを握っていた。
腰はさらに曲がり、髪は真っ白になったけれど、その瞳だけは、18年前のあの日と同じ、澄んだ光を宿している。

「玲奈ちゃん。玲奈ちゃん、いうんやね」

志乃は独り言のように呟いた。
ハナではなく、玲奈。あの子が最期に一生懸命呼んでいた、自分の名前。
志乃は、ホースの先を指でぎゅっと窄めた。

「玲奈ちゃん、見てるか。おばちゃん、今日も虹を作るよ」

蛇口をひねると、勢いよく水が飛び出した。
水しぶきが、春に近い陽光を浴びて、空中に散らばる。
細かい飛沫が光を屈折させ、更地の上に、鮮やかな七色のアーチを描き出した。

それは、18年前にハナが掴もうとして、叔父の靴に踏みにじられた、あの光と同じ色だった。

「……あ、にじや」

志乃には聞こえた。
アスファルトの匂い、泥の匂い、そしてあどけない少女の笑い声。
「はな、にじ、だいすき」と言って、赤い長靴で跳ね回る、小さなおかっぱ頭の幻影。

志乃は、空に向かって高く、高く、水を撒き続けた。
虹は大きく広がり、更地を越えて、境界線を越えて、どこまでも高い空へと溶け込んでいく。
玲奈という名前が、重い土の下から解き放たれ、光の粒子となって世界に還っていく儀式のように。

「玲奈ちゃん、もう、どこへでも行けるよ。もう、隠れんでええんやよ」

志乃の頬を、涙が伝う。
けれど、それは後悔の涙ではなかった。
一人の少女が確かにここにいたことを、その体温を、その名前を、自分が最期まで見届けるのだという、静かな決意の証だった。

遠くで、小学校のチャイムが鳴る。
下校する子供たちのランドセルの音が、リズムを刻んで路地を通り過ぎていく。
かつては疎外感の象徴だったその音も、今は玲奈を祝福する鐘の音のように聞こえた。

虹の根元を追いかけて、玲奈の足跡が空へと続いていく。
私たちは、忘れない。
数字にされた197人の影を。
管轄の隙間に落ちた、小さな叫びを。
そして、かつてこの路地で、確かに虹を見上げて笑っていた、岩本玲奈という少女のいた証を。

志乃がホースを置いたあとも、濡れたアスファルトの上には、しばらくの間、消えない光の残像が揺らめいていた。

(第十話 完)

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