『消された境界線 ―八尾・コンクリート詰めの18年―』住民票削除

かおるこ

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エピローグ『霧解け』

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 エピローグ『霧解け』

冬の八尾は、骨の奥まで冷える。

解体工事が終わった更地には、新しい土が入れられ、白い霜が朝日にきらめいていた。あの淡黄色の長屋は、もう跡形もない。けれど、空気の奥に、まだ石灰の乾いた匂いが残っている気がする。

志乃は、杖をつきながらその更地の前に立った。

「玲奈ちゃん」

はじめて、そう呼んだ。

「玲奈ちゃん、いうんやね」

冬の霧が低く垂れ込め、吐く息が白く揺れる。
遠くで工場の機械音が、鈍く地面を震わせる。

十八年。

コンクリートの中で止まった時間は、志乃の体にも刻まれていた。背は曲がり、手は震える。けれど、胸の奥にあるものは、あの日と同じ熱を持っていた。

「おばちゃん、ずっと覚えてるよ」

湿った土の匂い。
あの夏の、焼けたアスファルトの匂い。
虹を掴もうとした、小さな赤い長靴。

志乃は、ポケットから小さな袋を取り出した。
解体の日、鑑識が拾い上げたコンクリートの欠片。許可を得て、ほんの少しだけ分けてもらったものだ。

灰色の塊。
冷たい。重い。

「重かったやろなぁ……」

指先に伝わるざらつき。
志乃の喉が震える。

その時、霧の向こうから、子どもたちの声が聞こえた。
ランドセルの揺れる音。笑い声。走る足音。

冬なのに、どこか柔らかい光が混じっている。

霧が、ほんの少しだけ薄くなる。

それは「霧解け」だった。

春が来たわけじゃない。
花が咲いたわけでもない。
ただ、空気がわずかに変わった。

志乃は蛇口をひねる。
持ってきたホースから、水が勢いよく噴き出す。

冷たい水が、朝の光を受けて弧を描く。

「玲奈ちゃん、見てるか」

飛沫が、冬の陽を屈折させる。

七色。

本当に小さな、壊れそうな虹。

「あ、にじや」

志乃は自分でそう呟き、涙をこぼした。

その虹は、誰かを救う力なんて持っていない。
コンクリートを砕くことも、時間を巻き戻すこともできない。

けれど。

玲奈は、もう「管轄外」ではない。
「不明者」でもない。
「いないこと」でもない。

名前が戻った。
声が記録された。
記者が書いた。
裁判が残した。
近所の老婆が覚えている。

それは、霧の中に灯る小さな灯りだ。

志乃は、灰色の欠片を更地の土にそっと埋めた。

「もう、ここは揺りかごちゃうで」

声が震える。

「外や。空や。光や」

霧が、ゆっくりと流れていく。
太陽が、少しだけ強くなる。

遠くでチャイムが鳴る。

子どもたちが帰る時間。

その足音は、もう玲奈を拒まない。

志乃は空を見上げる。

「あんたな、忘れられへんよ」

ワンピースのあの言葉が、胸をよぎる。

人は、忘れられた時に死ぬ。

でも。

玲奈は、死なない。

土の下に封じられた体は戻らない。
失われた六年も、十八年も、返ってこない。

それでも。

霧解けは起きた。

沈黙は、少しだけ緩んだ。

そして、その緩みは、誰かの目を覚まさせる。

坂上は、判を押す前に現地へ足を運ぶようになった。
立花は、数字の横に必ず名前を置くようになった。
志乃は、打ち水をやめなかった。

更地の上で、水が乾いていく。

光の残像が、しばらく揺れている。

玲奈の足跡は、もう土の下にはない。
霧の向こうへ、ゆっくりと溶けていく。

それは逃亡ではない。
消失でもない。

解放だ。

冬の霞灯町に、春はまだ来ない。
けれど、霧は確かに薄くなっている。

誰かが、次の子どもを見落とさないために。

玲奈という名前が、
この町の空気の一部になった朝だった。


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