パラサイト・チェンジ ~弟を押し付けた僕が、家族を失うまで~

かおるこ

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第3話 崩れ始める「良い兄」

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第3話 崩れ始める「良い兄」

二週間が過ぎた。

最初は「大したことじゃない」と思っていたことが、じわじわと体に重くのしかかってくる。

朝、目覚ましの音が鳴る。
電子音が耳に刺さる。

拓海は布団の中で顔をしかめた。

「……もう朝か」

枕元のスマートフォンを手探りで止める。

リビングから、トースターの音が聞こえる。
パンが焼ける香ばしい匂いが廊下に流れてきた。

いつもの朝だ。

ただ、拓海の体はいつもより重かった。

ダイニングに入ると、真由がキッチンに立っている。
フライパンの油が小さく弾けて、じゅう、と音を立てた。

「おはよう」

拓海が言う。

「おはよう」

真由は振り返らずに答える。

その声は、いつもと同じ温度だった。

湊は椅子の上で足をぶらぶらさせている。

「パパ、きょうね、えんそく!」

「そうか」

拓海は頭を撫でる。

その時、テーブルの端にある皿が目に入った。

蓮の朝食だ。

トーストと、卵焼き。

湯気が少しだけ揺れている。

(ああ……またか)

拓海は小さく息を吐いた。

皿を持つ。

トーストの匂いが温かい。

廊下を歩く。

床がきしむ。

あのドアの前。

ノックする。

「蓮」

返事はない。

もう一度叩く。

「朝飯」

数秒の沈黙。

ドアが、ほんの少し開く。

暗い隙間から手が出る。

皿を受け取る。

「……ありがと」

かすれた声。

すぐにドアが閉まる。

カチ。

拓海はそのドアを見ながら思った。

(これ、いつまで続くんだ)

その夜。

会社の蛍光灯は白く冷たい。

時計を見ると、もう七時を過ぎていた。

隣の席の佐藤が立ち上がる。

「拓海、飲みに行く?」

「え?」

「金曜だし」

拓海は一瞬迷った。

家に帰れば、やることがある。

食事を運ぶ。

皿を回収する。

洗濯もある。

でも――

胸の奥で、小さな声が言う。

(たまにはいいだろ)

「行く」

そう答えていた。

居酒屋は、油と煙の匂いで満ちていた。

焼き鳥の焦げる音。
グラスのぶつかる音。

「かんぱーい!」

ビールの泡が喉を流れる。

冷たくて、気持ちいい。

佐藤が聞いた。

「最近どう?」

拓海は苦笑した。

「いや、実はさ」

箸で枝豆をつまむ。

「弟がうちに来てて」

「へえ」

「引きこもり」

佐藤は目を丸くする。

「マジ?」

拓海は笑った。

「世話がさ、めちゃくちゃ大変」

「飯運んで、洗濯して、ゴミ出して」

ビールを飲む。

喉が熱い。

「引きこもりの世話とかマジきつい」

言った瞬間、妙に気分が軽くなった。

佐藤は笑う。

「それお前、優しいな」

「そう?」

「普通やらねえって」

拓海は肩をすくめた。

「まあ、兄だし」

グラスを傾ける。

酒が回る。

気分は少しだけ良くなった。

家に帰ったのは、夜十時を過ぎていた。

玄関を開けると、家は静かだった。

テレビの音だけが流れている。

真由がソファに座っていた。

「遅かったね」

「残業」

拓海は靴を脱ぐ。

酒の匂いが少し自分からする気がした。

真由の視線が、一瞬だけ止まる。

でも何も言わない。

ダイニングを見る。

蓮の夕食が、まだキッチンに置いてあった。

ラップがかかっている。

(あー……)

面倒だな、と思った。

拓海は皿を持つ。

廊下を歩く。

ドアの前で止まる。

ノック。

「蓮」

返事はない。

「飯」

沈黙。

拓海は少しイラついた。

「おい」

ドアは開かない。

拓海は皿を見た。

味噌汁はもう冷めている。

(……もういいか)

階段の途中の棚に皿を置いた。

「ここに置いとくぞ」

声をかける。

返事はない。

拓海は肩をすくめた。

リビングに戻る。

真由が聞いた。

「渡した?」

「うん」

拓海はソファに座る。

テレビの光が部屋を青く照らしている。

真由はしばらく拓海を見ていた。

「大変?」

「まあね」

拓海は笑う。

「でもちゃんとやってるよ」

真由は何も言わない。

ただ、静かに見ている。

その視線は、冷たい水みたいだった。

翌朝。

廊下を歩くと、昨日の皿がそのまま置いてあった。

味噌汁の表面に、薄い膜が張っている。

魚の匂いが少しする。

拓海は顔をしかめた。

(……面倒くさ)

皿を持つ。

キッチンのシンクに置く。

洗う気にはなれなかった。

洗濯カゴを見る。

蓮の服が溜まっている。

少し湿った匂い。

拓海はため息をついた。

(あとでやればいい)

そう思って、会社に向かった。

その夜。

また居酒屋。

またビール。

「最近帰り遅くない?」

佐藤が言う。

拓海は笑った。

「弟の世話があるからさ」

そう言いながら、グラスを傾ける。

家では。

真由が静かに皿を洗っていた。

水の音。

スポンジの擦れる音。

そして廊下の奥。

閉じたドア。

その向こうで、蓮は静かに食事をしていた。

階段の途中に置かれた皿を持って。

そのことを――

拓海はまだ、知らない。

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