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第2話 冷たい条件
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第2話 冷たい条件
朝のキッチンは、コーヒーの香りで満ちていた。
トースターが「チン」と軽く鳴る。
バターが溶けていく匂いが、温かく部屋に広がる。
真由は無駄のない動きでフライパンを振っていた。
卵がじゅう、と小さく音を立てる。
拓海はダイニングの椅子に座りながら、その背中を見ていた。
昨日のことが、まだ頭に残っている。
「私は一切関与しない」
その言葉。
思い出すと、少しだけ胸の奥がざわついた。
「……コーヒー」
真由が言った。
「そこ」
テーブルの端を指で示す。
「あ、ありがとう」
拓海はカップを取る。
口に含むと、少し苦い。
いつもより、苦く感じた。
リビングの向こうの廊下は静かだった。
蓮は、まだ部屋から出ていない。
というより――
**出てくる気配がない。**
真由は皿をテーブルに置いた。
「食べて」
湊はまだ眠そうな顔で椅子に座っている。
「おはよ、パパ」
「おはよう」
拓海は息子の頭を軽く撫でた。
朝の空気は、普段と変わらない。
カーテンの隙間から光が差し込んで、床に細い線を作っている。
ただ一つ違うのは――
廊下の突き当たりに、閉じたドアがあることだった。
朝食を食べ終わると、真由が言った。
「今日から始めて」
「え?」
「あなたの責任」
淡々とした声だった。
真由はキッチンを指さす。
そこには、蓮の分の皿が一枚、置かれていた。
トーストと、目玉焼き。
湯気はもう、ほとんど消えている。
「……ああ」
拓海は立ち上がった。
皿を持つと、少しぬるい。
廊下を歩く。
床板が小さく鳴る。
ドアの前で止まった。
軽くノックする。
「蓮」
返事はない。
もう一度叩く。
「朝ごはん」
沈黙。
数秒。
そして――
ドアが、ほんの少しだけ開いた。
暗い部屋の中から、白い手が伸びる。
皿を受け取る。
「……ありがと」
小さな声だった。
ドアはすぐ閉まった。
カチ、と音がした。
拓海はしばらくそのドアを見ていた。
(まあ……こんなもんか)
そう思い、肩をすくめる。
その夜。
会社から帰ると、外はすっかり暗くなっていた。
玄関を開けると、味噌汁の匂いがする。
湊の笑い声がリビングから聞こえた。
「パパおかえり!」
「ただいま」
拓海は靴を脱ぐ。
その時だった。
真由の声が飛んできた。
「拓海」
「うん?」
「あなたの仕事」
ダイニングテーブルの端に、トレーが置いてあった。
白い皿。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
蓮の夕食だった。
「ああ、はいはい」
拓海はトレーを持つ。
味噌汁が揺れる。
廊下を歩くと、出汁の匂いがふわりと広がる。
また、あのドアの前。
ノック。
「蓮、飯」
少しの沈黙。
ドアが開く。
蓮の顔は、昼よりも暗く見えた。
「……ありがと」
皿を受け取る。
その時、拓海は部屋の中を少しだけ見た。
カーテンは閉まっている。
空気は少し湿っている。
ゲーム機の光だけが、青く壁を照らしていた。
ドアが閉まる。
カチ。
拓海はリビングに戻った。
真由が聞いた。
「ちゃんと渡した?」
「うん」
真由は頷くだけだった。
それだけ。
数日後。
洗濯機が回る音が、家の中に響いていた。
ゴウン、ゴウン、と重い音。
拓海は洗濯カゴを見て、ため息をつく。
「……多くない?」
真由はスマートフォンを見ながら言った。
「知らない」
「あなたの担当」
冷たい言葉。
「いや、でもさ」
「約束でしょ?」
真由は顔を上げない。
拓海は黙った。
洗濯物を抱える。
蓮の服は、少し湿った匂いがした。
部屋にこもった空気の匂い。
洗濯機に放り込む。
水の音が響く。
その夜。
皿を取りに行く。
ノック。
「蓮」
ドアが開く。
皿を差し出す。
魚の骨だけが残っている。
「……ありがと」
それだけ。
ドアが閉まる。
また別の日。
ゴミ袋を持って外に出る。
夜風が冷たい。
コンビニの灯りが遠くに見える。
(なんか……面倒だな)
ふと、そう思った。
最初は「簡単だ」と思っていた。
でも現実は違う。
仕事から帰ってきて、
皿を運び、
皿を下げ、
洗濯して、
ゴミを出す。
地味な作業が、毎日続く。
リビングから、真由と湊の笑い声が聞こえる。
テレビの音。
温かい光。
その外側で、
拓海はゴミ袋を縛っていた。
結び目を強く引く。
ビニールがきしむ。
(こんなはずじゃなかった)
小さく息を吐く。
その時だった。
後ろから声がした。
「大変そうね」
振り向くと、真由が立っていた。
腕を組んでいる。
「いや、別に」
拓海は笑う。
「これくらい平気」
真由は少しだけ首をかしげた。
「そう」
そして静かに言った。
「でも」
少しだけ間を置く。
「まだ始まったばかりよ」
玄関の灯りの下で、真由の目は静かだった。
まるで、
この先に何が起きるか
全部知っている人みたいに。
朝のキッチンは、コーヒーの香りで満ちていた。
トースターが「チン」と軽く鳴る。
バターが溶けていく匂いが、温かく部屋に広がる。
真由は無駄のない動きでフライパンを振っていた。
卵がじゅう、と小さく音を立てる。
拓海はダイニングの椅子に座りながら、その背中を見ていた。
昨日のことが、まだ頭に残っている。
「私は一切関与しない」
その言葉。
思い出すと、少しだけ胸の奥がざわついた。
「……コーヒー」
真由が言った。
「そこ」
テーブルの端を指で示す。
「あ、ありがとう」
拓海はカップを取る。
口に含むと、少し苦い。
いつもより、苦く感じた。
リビングの向こうの廊下は静かだった。
蓮は、まだ部屋から出ていない。
というより――
**出てくる気配がない。**
真由は皿をテーブルに置いた。
「食べて」
湊はまだ眠そうな顔で椅子に座っている。
「おはよ、パパ」
「おはよう」
拓海は息子の頭を軽く撫でた。
朝の空気は、普段と変わらない。
カーテンの隙間から光が差し込んで、床に細い線を作っている。
ただ一つ違うのは――
廊下の突き当たりに、閉じたドアがあることだった。
朝食を食べ終わると、真由が言った。
「今日から始めて」
「え?」
「あなたの責任」
淡々とした声だった。
真由はキッチンを指さす。
そこには、蓮の分の皿が一枚、置かれていた。
トーストと、目玉焼き。
湯気はもう、ほとんど消えている。
「……ああ」
拓海は立ち上がった。
皿を持つと、少しぬるい。
廊下を歩く。
床板が小さく鳴る。
ドアの前で止まった。
軽くノックする。
「蓮」
返事はない。
もう一度叩く。
「朝ごはん」
沈黙。
数秒。
そして――
ドアが、ほんの少しだけ開いた。
暗い部屋の中から、白い手が伸びる。
皿を受け取る。
「……ありがと」
小さな声だった。
ドアはすぐ閉まった。
カチ、と音がした。
拓海はしばらくそのドアを見ていた。
(まあ……こんなもんか)
そう思い、肩をすくめる。
その夜。
会社から帰ると、外はすっかり暗くなっていた。
玄関を開けると、味噌汁の匂いがする。
湊の笑い声がリビングから聞こえた。
「パパおかえり!」
「ただいま」
拓海は靴を脱ぐ。
その時だった。
真由の声が飛んできた。
「拓海」
「うん?」
「あなたの仕事」
ダイニングテーブルの端に、トレーが置いてあった。
白い皿。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
蓮の夕食だった。
「ああ、はいはい」
拓海はトレーを持つ。
味噌汁が揺れる。
廊下を歩くと、出汁の匂いがふわりと広がる。
また、あのドアの前。
ノック。
「蓮、飯」
少しの沈黙。
ドアが開く。
蓮の顔は、昼よりも暗く見えた。
「……ありがと」
皿を受け取る。
その時、拓海は部屋の中を少しだけ見た。
カーテンは閉まっている。
空気は少し湿っている。
ゲーム機の光だけが、青く壁を照らしていた。
ドアが閉まる。
カチ。
拓海はリビングに戻った。
真由が聞いた。
「ちゃんと渡した?」
「うん」
真由は頷くだけだった。
それだけ。
数日後。
洗濯機が回る音が、家の中に響いていた。
ゴウン、ゴウン、と重い音。
拓海は洗濯カゴを見て、ため息をつく。
「……多くない?」
真由はスマートフォンを見ながら言った。
「知らない」
「あなたの担当」
冷たい言葉。
「いや、でもさ」
「約束でしょ?」
真由は顔を上げない。
拓海は黙った。
洗濯物を抱える。
蓮の服は、少し湿った匂いがした。
部屋にこもった空気の匂い。
洗濯機に放り込む。
水の音が響く。
その夜。
皿を取りに行く。
ノック。
「蓮」
ドアが開く。
皿を差し出す。
魚の骨だけが残っている。
「……ありがと」
それだけ。
ドアが閉まる。
また別の日。
ゴミ袋を持って外に出る。
夜風が冷たい。
コンビニの灯りが遠くに見える。
(なんか……面倒だな)
ふと、そう思った。
最初は「簡単だ」と思っていた。
でも現実は違う。
仕事から帰ってきて、
皿を運び、
皿を下げ、
洗濯して、
ゴミを出す。
地味な作業が、毎日続く。
リビングから、真由と湊の笑い声が聞こえる。
テレビの音。
温かい光。
その外側で、
拓海はゴミ袋を縛っていた。
結び目を強く引く。
ビニールがきしむ。
(こんなはずじゃなかった)
小さく息を吐く。
その時だった。
後ろから声がした。
「大変そうね」
振り向くと、真由が立っていた。
腕を組んでいる。
「いや、別に」
拓海は笑う。
「これくらい平気」
真由は少しだけ首をかしげた。
「そう」
そして静かに言った。
「でも」
少しだけ間を置く。
「まだ始まったばかりよ」
玄関の灯りの下で、真由の目は静かだった。
まるで、
この先に何が起きるか
全部知っている人みたいに。
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